11.街なみ「鹿野らしさ」調査報告書
 
  1−4 鹿野の街と建物
 鹿野はその昔亀井公の城下町として開け町の基盤はその当時につくられたものである。その後江戸から明治のはじめまで街の様子を伺える資料や現存する建物もないことから人々の暮らしぶりや街なみについての江戸期の詳細は不明である。
 鹿野町誌には、第一次世界大戦の好景気を反映して自由な空気は地方にも広がった。……鹿野では大正元年・七年の水害復旧のため県の土木・耕地関係の出先機関が常駐し、工事関係者も多数働き、町内に宿泊する者も多かった。

写真1 この写真は鹿野町誌より抜粋したもので、軒下の縁台がよくわかる
 また製紙業や製糸業が盛んになり業者の出入りが多く周辺の町村から商工業の中心鹿野に集まる人々によって賑わっていた。そのため大正の半ばころから宿屋や飲食・料理屋が繁昌した。……また置屋があり夕方になると人力車で宴会に赴く芸者の姿も見られ当時は 鹿野の街も大変にぎやかであったと書かれている。
 今回の聞き取り調査によれば、昭和の初め頃は毎年師走24日と正月24日にあたご神社の市が開かれていて、周辺の町村から参詣を兼ねて買い物に来る者、あるいは農産物や雨合羽の一種みのを持ってきて商う者もいたようである。特に西鹿野地区の大工町、鍛冶町、山根町、下町が賑わっていたと言われ、軒先を借りて商う者も多く商家でも縁台(脚を折りたたんで壁に収納)を出して商品を陳列していたと思われる。
 日常にあっては地元での商業活動が主で、遠くの町や村に商いに出かけることはそれほど多くはなかったものと思われる。それは、建物の規模や間取りから読み取ることができる。
 間取りの調査は残存している明治期の建物は少なく10軒足らずで、今回その内7軒を調査した。そのうち、2列型で店の間の広さは8帖が大半で大きな店構えとは言えないようである。

建物の構造
 調査した建物の全てが同一の架構をしていた。それは、鳥取県東部の民家の架構と異なっている。通常は大黒柱、小黒柱と建物の外側の柱(側柱)との間に平物と呼ばれる大梁を配して柱間をつなぎ建物中央部つまり大黒、小黒柱の列には丸物(牛梁)を渡して柱頭間をつなぐ、この丸物と側柱の柱頭をつなぐ桁梁間に松丸太(小屋梁)を掛けて屋根を乗せる。鹿野の場合は大黒柱と側柱の柱頭を1本の大角(大梁)を掛け、店の間(8帖)
の真ん中直角方向に小角という梁を掛けて2階柱をのせる。大黒、小黒柱間及び小黒、側柱間は平物でつないで架構を構成している。
 このように鹿野だけ架構が異なるのはなぜだろう、それは山城屋という屋号を持つ小籏氏によれば、山城屋の先祖は応仁の乱以降京都の山城地方からこの鹿野に移って来た宮大工だったそうである。従ってこの架構技術は京都から持ってきたと考えられる。

写真2 大角と大黒柱及び平物
写真3 横角と小屋掛け

図4 1階部分架構図

建物の意匠

写真4 軒を支える腕木
 外部は道路側1間は出庇風に平屋でその奥から2階が建ち上っている。軒の出が4尺と深く高さは低く押えられて道路を通っても圧迫感を感じない。屋根は赤瓦葺き、外壁は1,2階とも開口部が多く格子がはめてある。残り部分はしっくい塗り大壁である。当時は家並みも残っていて均整の取れた街並みだったのであろう。草葺屋根も多くあったようである。出の深い軒は太い垂木が化粧で、腕木ともやで支えられている。雨や雪から土台や格子戸を守っているようである。
 現在の道路はアスファルト舗装工事のため以前より約30センチメートル高上げされている。そのため建物の高さと道路幅の微妙な空間的関係が崩れ、道を歩くときの家並みの心地よさをあまり感じられない。
 

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