11.街なみ「鹿野らしさ」調査報告書
 
  1−7城下町並みの住民の暮らし

城下町の拡張(亀井家による鹿野城下町統治時代)
 1600年初頭、亀井公は鹿野周辺を流れる河内川、水谷川、末用川等の大掛かりな河川改修を行い、城の外郭を整備している。
 併せて都市計画を積極的に進め商工業を盛んならしめた。それは町名つまり大工町、鍛冶町、下町、上町、紺屋町等から商工業者の職人町ができていたことがわかる。特に栄えていた上町、下町には道幅も広く2間半(約5メートル)あったと言うから立派である。尚幹線道路の側面に水路が造られており、随所に石造りの「せき」が設けられ防火用水として水をたくわえ、緊急事態に対応できるようになっている。亀井公統治時代(1581〜1617)が最も繁栄した時代といわれ、現在の鹿野町の基盤が出来上がった。
藩政時代(池田家による鳥取城からの鹿野町統治時代)
 1800年初頭には凶作が続き農作物の生産性の低下が見られる。1反当たりの米の収穫量がこれまで2石あったものが1.5石から1.6石になっている。人々は耕作をやめ他業に移るようになってきた。気多郡内では針金鍛冶、木綿の生産に切り替える農家がふえている。「人々農業を嫌い、男は商売女は奉公をやめ親元で木綿を織る。(鹿野町誌より)」このことから半商、半農の暮らしぶりが伺える。また、古文書から伺えるものとして「古来より当村は因伯交通の要路に当たっていたので藩主池田公は……番所なるものを設け…」、「傘張り、蓑作り、紙漉、鍛冶番匠その他諸道の細工人多くあり今も町の中に農商人に混じりて商家多くあり…」このことから、商いが生活形成に密接に関係していたことが伺える。その他として1752年(江戸中期)勝見名跡誌による産物名と記事の中の鹿野町について記載されている部分の抜粋より「以前の城下の遺風すたらず 所の名も鹿野町と称して鹿野村といわず。……」のことから、この地域の住民は亀井公統治時代を誇りとして生活していたことが推測できる。
明治時代
 手漉き和紙製造(中小業)に従事するものが多くなっている。和蝋燭作りも行うようになる。菅栽培、菅笠製造は幕末(安政)の頃から生産量が多く明治になってもつづいている。木履(ぶくり)は下駄のことで盛んに作るようになる。(中でも西鹿野が中心である)

1−8鹿野地区の建物被害
因府年表に見られる災害

鹿野村での火災
1780年 150軒余
1807年 48軒
1809年 20軒
1827年 30軒 賊火

大雪
7尺(210センチメートル)以上 4回
5尺(150センチメートル)から7尺 8回
3尺(90センチメートル)から5尺 13回
1769年大雪で雲龍寺潰れる。

地震 大地震としての記録は13回

※参考: 平成12年8月現在の城下町地区の世帯数は353世帯

 上記の記録から鹿野では度重なる大火で家屋の焼失、大雪のため民家の圧壊が考えられる。地震による被害のほどは不明である。この壊滅的な状況が、現在の鹿野町に江戸時代の民家、町屋が現存していない理由のひとつと考えられる。明治中期以降になると瓦(石州)葺の屋根も徐々に増え火災による類焼も減少したとも推測できる。

1−9まとめ
鹿野らしい街なみとは
 この町並みを散策する人々は口々に心地よい町並みという。しかし建物だけで判断すると特に全国的に優れたものだけで町並みを形成しているわけではない。ところが、一目見て感じることは町並みの軒先が一様に揃っているようにも見える。そして、この調和された軒高の基準は本調査で対象とした明治初頭の建物とほぼ同じにあつらえてあった。人の生活する空間において、バランスのとれた町並みといえよう。
 ここ数年で新築された家屋は木造瓦葺二階建がほとんどで、格子、白壁など工夫をこらしているが、町並みの空間、すなわちヒューマンスペースや天空率への配慮という点では疑問が残る。今後の鹿野らしい町並み維持のためには、部分毎の機能や視覚を満たすことはもちろんであるが、もっと全体的な空間を再認識する必要がある。

 

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