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因幡の傘踊り

多彩な長柄の傘に付いた100個の鈴が響く 勇壮で華麗な傘の舞…

「因幡の傘踊り」とは

因幡の傘踊り因幡の傘踊りは、100個の小鈴をつけ美しく彩った長柄の傘を使い、揃いの浴衣に手甲脚半、白鉢巻に白たすきの凛々しいいでたちで、唄にあわせて傘を回転させながら振り回す、真に勇壮で動きの激しい踊りです。全国でも珍しい独自の伝統芸能であり、昭和49年10月18日には「鳥取県無形民俗文化財」に指定されています。

踊手は6人、8人、10人等の複数で、傘の振りを統一しリズム化するため「おどれおどれ、みなおどれ」のひらがな文を傘で文字を書くように工夫されています。またこれに高低落差の変化をつけるため鶴亀の姿態ポーズを取り入れています。鶴は高い姿勢であり、亀は低い姿勢となります。この踊りは剣舞をアレンジしたもので、長柄の傘を開いて、気合とともに斬り込みながら踊るのが基本となります。

傘踊りの伝説から現在の剣舞の型へ~江戸時代の伝説~

徳川の末期、因幡地方が前代未聞の大旱魃(だいかんばつ)になり、田畑は干割れ、作物は枯草の様相となりました。この時、五郎作という老農夫が三日三晩冠笠を振り回して踊り、雨乞いの祈願をしたことが、傘踊りの起源といわれています。この祈願が天に通じたのか、三日目の夜、沛然(はいぜん)として大雨が降りそそぎ、憂慮された大旱ばつも一挙に解消し、大飢饉(だいききん)も免れたといいます。村民の喜びと感激はもとより五郎作翁に集まったのですが、悲しいことに老翁は踊りの過労のため数日後帰らぬ人となってしまいました。村民は五郎作翁の霊を慰めたいと考え、その年の盂蘭盆(うらぼん)から老若男女を問わず五郎作翁が踊った時と同様に冠笠を手に踊り続けました。

因幡の傘踊りの誕生~故・山本徳次郎翁の功績~

山本徳次郎翁顕彰碑その後、明治29年、日清戦争のほとぼり未だ覚めやらぬ頃、当時若者連中の間に賭博が流行して心ある人々を嘆かせていました。若者連中の長としてこのことを心配していた国府町高岡の山本徳次郎は、何かこれに代わる健全な娯楽はないかと思案するうち、神主の持つ雨傘にヒントを得て、今までの冠笠を長い柄の傘に代え、自己が日ごろたしなむ剣舞の型を取り入れて振り付けすれば、青年達が喜ぶ勇壮な踊りが作れるのではと考えました。それ以来、自宅にこもり懸命に踊りの研究を始めたのです。

しばらくして完成した長柄の傘踊りの勇壮活発な踊りに青年達は興奮し、彼の周りに集まり、傘作りと踊りの修練に没頭しました。その後、この踊りは地区の青年達に受継がれ、「因幡の傘踊り」と言われるようになりました。国府町が「因幡の傘踊り発祥の地」といわれるのはこのような由来によります。

なお、傘踊りの創始者・山本徳次郎(国府町名誉町民)の遺業を後世に伝承するため、国府町の中央(あかね荘前)に記念碑が建立され、その功績と遺徳を偲んでいます。

伝統芸能として発展~日本から海外へ~

中国・天安門広場にていくたび盛衰の歴史を重ねてきましたが、昭和23年11月、天皇陛下が山陰行幸された際に「因幡の傘踊り」が陛下の天覧に供しました。また、昭和25年には東京で第1回全国郷土芸能大会に出場し、全観衆に感銘と興奮を与えました。以来、公演の招聘は数え切れません。特に昭和45年の大阪で開かれた万国博覧会では3回の公演を披露しています。この万博公演を期として、昭和46年1月19日に「国府町因幡の傘踊り保存会」が結成され、この伝統芸能が保存・伝承されています。

なお、平成5年9月には、日本を代表する郷土芸能として中華人民共和国北京市長から招聘され、初めての海外公演を行いました。その後も平成7年、アメリカ合衆国ニューヨーク市のカーネギーホール、平成14年に再び北京市でも踊り、世界の人々に賞賛されました。今後も国際的な活躍が期待されます。



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