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鳥取藩主池田家墓所

大名家の葬制を知る貴重な歴史的遺産

徳川幕府と深い関係にある『池田家』

池田家墓所「鳥取藩主池田家墓所」は因幡一ノ宮として厚い信仰を集める宇倍神社のほど近くにあります。

墓所は敷地が4haあり、1693(元禄6)年に没した徳川家康のひ孫にあたる初代藩主・光仲公から、1850(嘉永3)年に客死した11代藩主・慶栄公までの歴代藩主のほか、藩主夫人や親族75基の墓碑が、一族にお仕えした人の名を刻んだ254基の灯籠とともに整然と並んでいます。

江戸時代に因幡・伯耆の32万石を治めた池田家。鳥取の歴史の一時代がこの墓所にうががわれます。

山間にひっそりとたたずみ、春は桜、秋は紅葉が美しく、四季折々にこの墓所を訪れる人は後を絶ちません。

山あいの広大な墓所には 歴代鳥取藩主が眠る

~因幡32万石の大名として寛永9年から藩籍奉還に至るまで238年間、12代続いた池田家。その墓所は大名の偉容を今に伝えている~

墓所の選定と藩主の埋葬

池田家墓所国府町奥谷【おくだに】に江戸時代、初代鳥取藩主・池田光仲公から11代藩主・慶栄公までの歴代藩主とその夫人、またその分家である東館・西館の人々の墓所があります。

初代鳥取藩主・光仲公は1693(元禄6)年7月7日に鳥取城で亡くなりました。そこで鳥取付近で墓所を定めることになり、殿様にふさわしい場所を方々調査した結果、この奥谷の地に埋葬することとなりました。

その後11代まで、藩主が鳥取で死去した際はもちろん、江戸やその他の地で亡くなってもこの奥谷に埋葬されました。

8代藩主・斎稷【なりとし】公は江戸で亡くなり、向島の弘福寺(東京都墨田区)に葬られましたが,遺髪だけは鳥取に帰り、他の藩主と同様に墓碑が建てられました。

ただ、12代藩主・慶徳【よしのり】公は京都の旅館で死去し、東京の向島弘福寺に葬られました。後に多摩墓地に移されましたが、分霊は鳥取の樗谿神社に祀られています。そして慶徳公以降は東京に埋葬されています。

鳥取藩主池田家は、徳川幕府と深い関係にあり、藩主の名前は時の徳川将軍の名前から一字をもらって付けられています。(例 三代将軍家光 → 初代藩主光仲)

藩主の葬儀と亀趺円頭墓碑【きふえんとうぼひ】

亀趺円頭墓碑藩主の葬儀は、遺体を柩に収め、いったんは興禅寺に安置されました。江戸やその他の地で亡くなった場合も、参勤交代の時と同様の行列で鳥取へ帰り、興禅寺に入ったのです。興禅寺で御龕【おがん】という柩を入れる箱に移し、定められた葬列で宮下の化田河原【けでんがわら】にきます。そこでは、御棺場という所につくられた堂に納められて葬儀が行われてました。そして法要の後に、奥谷の墓所に埋葬されたのです。

墓碑はいずれも、玉石垣をめぐらした土台に三段の台石を据え、その上に亀の形をした亀趺【きふ】という台石を乗せ、さらに上の部分を丸くした平たい四角柱の碑を建ててあります。これは「亀趺円頭【きふえんとう】の墓碑【ぼひ】」と呼ばれる立派なものです。墓碑には、法文と碑文が刻まれています。

藩主夫人と分家の墓

池田家墓所藩主夫人は1862(文久2)年までは、江戸で住むことになっていました。そのため歴代夫人は江戸で亡くなり、多くは弘福寺に埋葬されました。しかし、関東大震災後に奥谷の池田家墓所に移されたのです。

また、東館・西館9代の方々もこの墓所に埋葬され、それぞれ墓碑が建てられています。

この池田家墓所には、親族75基の墓碑と、一族にお仕えした人々の名を刻んだ254基の灯籠が整然と並んでいます。

このように江戸時代の藩主の墓が同じ場所に数多くそろっていることは少なく、また大名家の葬制を知る上で大変貴重な墓所ということによって、1981(昭和56)年に国の史跡に指定されました。

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