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残しておきたい ふるさと 気高の宝


残しておきたい ふるさと 気高の宝





発刊にあたって

鳥取市気高町総合支所長 戸田 善泰

 早いもので、平成一六年十一月一日の合併から三年余りが経ちます。九市町村の合併により、様々な個性のある地域が一つになったことから地域コミュニティの活性化がますます重要になっております。
 鳥取市では「協働のまちづくり」を掲げ、住民と行政が良きパートナーとして共に町づくりを進めています。合併地域の活性化についても「合併地域活性化推進事業」を実施し、共に地域を盛り上げていきたいと考えております。
 その一環として、昨年は各集落の民俗行事、祭り、イベント等を一覧にしたカレンダーを作成し全戸に配布いたしました。
 今年は、各集落の自慢を写真と解説文で紹介し、今一度この気高町の良さを再確認してもらおうと住民と行政が協働で一冊の本にまとめました。
 本地域には浜村温泉や貝がら節祭りをはじめとする観光名所やイベント、歴史的な遺産等、多くの独特の歴史や行事、見所が数多く残されており町の宝として、各地域において永年にわたり受け継がれております。
 ぜひご一読いただき、お近くでの祭りや、イベントがある際には、足を運ぶなどしていただき、地域の活性化につながっていけば幸いです。最後になりましたが、集落の紹介をいただいた各集落代表者の方々、編集にあたった編集委員の方々、地元市民の方々など、多くの関係者に心からお礼申し上げ、発刊のご挨拶と致します。

平成二十年三月


ロゴ 集落地図

集落名クリックでご希望のページにジャンプします。

気高集落マップ




船磯 姫路 姉泊 新町2区 下原 八幡 西浜 東浜 浜村 新町1区 新泉 栄町 勝見 高江 グレースタウン 会下 郡家 睦逢 山宮 上原 田仲 下石 飯里 殿 宿 土居 上光 重高 二本木 下阪本 夏ヶ谷 下光元 奥沢見 常松 富吉 日光 上高浜 高浜 酒津 宝木 水尻 1

殿 布勢の清水

布施の清水 画像
良質清冷な因伯の名水 布の清水
 布平神社境内の大岩の底から、四季を通じて湧水量に変化のない清らかな水が、1日当たり約一千立方メートル湧き出ている。この清冷な水は、昭和六十一(一九八六)年に因伯の名水の指定を受けた。看板には「因伯の名水布の清水」と表示されている。
 「八幡さんの清水」とも呼ばれ、豊富な水量と良質清冷をもって近郷に広く知られ、亀井武蔵守茲矩公が「「その清冷さ氷のごとき」と称賛し、傍らに涼亭を設けて納涼したほどである。
 明治四十二(一九〇九)年には、村民の力によって境内より流れ出る水を利用して町内でも最初の水道が道路沿いに敷設された。その長さは約八百メートル、道行く人も飲用できる。現在もこの湧き水は、一日当り約百立方メートルが簡易水道に、その他は農業用水等に利用されている。
 また、平成二(一九九〇)年には境内を含め背後の山林八・七ヘクタールが鳥取県自然環境保全地域に指定された。
 その豊富な水量と一年中ほとんど変わらない水温(十二~十三度)、しかも良質であるこの水は、古くからふる里の人たちの飲用、その他に利用されてきた。今後も集落民こぞって名水の保全に努力していきたい。

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飯里 延命庵の木喰仏

 飯里には、延命庵というお堂がある。このお堂の本尊が木喰上人五行(一七一八~一八一〇)の作という木造十一面観音菩薩立像で、木喰仏の一つである。
 木喰上人五行は甲斐に生まれた僧で、名は明満。木喰とは穀類や野菜を断ち、木の実や山菜を食す行で、それを修める僧を木喰上人と呼ぶ。
 五行はその一人で「木喰」は僧侶ではない。五行は晩年各地を遍歴、日本全土に特異な木彫仏を残す。これが木喰仏で、同じく多くの木彫仏を残した僧・円空(一六三二~一六九五)の円空仏と並び称される。この木造十一面観音菩薩立像は、五行晩年の作である。京都府八木町の清源寺で作られ、その後延命庵に伝えられたのだという。
 なお延命庵は鹿野町にある譲傳寺の別院として建立されたものである。
 現在木喰仏並びに延命庵は飯里の人々が共同で維持管理しており、信仰の対象または貴重な文化財として、宗派を越えて日々大切に守られている。
木喰仏 画像
木喰上人五行作「延命庵の木喰仏」

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下石 国石神社

国石神社 画像
安産・子授けにご利益のある国石神社
 下石の地名の由来は以下のとおりである。「勝見名跡誌」によれば、鷲峯神社にスサノオノミコトとイナダヒメノミコトが祀られているので、隣村の下石村は「大蛇」とすべきであるが、氏神に国石神社が祀られているから「下石」の名前をあてたのだという。
 一方「因幡誌」には、昔、この里に大石が降ってきたから下石とついたのだとある。それによれば、「里ノ名下石ハ上古此地ニ大石天降リケレハ也即祭テ神トス祭神國石明神ノ形代是ナリト云傅ヘタリ」とある。
 国石神社は、創立年月は不詳だが、古文書によれば、江戸時代には国石大明神と称し、承応元(一六五二)年、松平相模守殿(初代藩主光仲公)の領分で、鷲峯大明神の末社なりと記されている。
 御祭神は下照姫命で安産・子授けにご利益があると伝えられている例祭日は三月二十二日である。
 現在、神社の管理は集落が大切に行っており、年に三回清掃奉仕を行うなどして手入れしている。

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上原 集落と鷲峰山

 上原は古くは原井出上の村と記されていたが、呼びにくいので、略して「上原」というようになった。今でも集落の神社は「原井出神社」と呼ばれている。同じように下原の昔の本名は原井出下の村といっていたようである。
 原井出とは、昔、鷲峰山が山岳信仰礼拝場として繁栄していた頃、参拝する者がはらい祓をした井出用の川すじの村落であったので、そういわれていた。
 集落東部には、大規模な上原遺跡があり、九世紀から十世紀頃の役所(郡衙)跡とされ、郡の中心部であった。その役所跡から見る鷲峰山は、鷲の頭部に相当する頂上部が真南の正面に眺められ、東西に広がる山の屋根が鷲の両翼そっくりに見え、鷲峰山が最もきれいに見える場所である。
 太古の昔から人々が暮らしてきたこの地に暮らす私たちは末永くこの景観を守っていかなければならないと思うと同時に、この景観に囲まれて暮らせることを誇りに思っている。
 是非この地でご覧になり、鷲峰山の迫力を実感していただきたい。
(「逢坂村誌」・日本海新聞「海潮音」参照)
鷲峰山 画像
上原遺跡から望む鷲峰山

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田仲 亀井茲矩公の墓所

亀井茲矩公の墓所 画像
明星ヶ鼻の亀井茲矩公の墓所
 田仲は集落の名称で、住居表示では道路を挟んで山宮と上原に分かれる。現在は十一世帯、九十一歳から六歳までの住民が生活している。
 集落内の明星ヶ鼻には、市指定史跡の亀井茲矩公の墓所があり、年数回、全世帯で参道と周辺の草刈りや落葉の清掃を行っている。
 墓所は小高い森になっていて、ゆっくり歩いて約十分くらいの山頂にある。山頂は広場になっており鹿野城跡やホットピアあたりを眺めることができる。
 参道はゆるやかな石段だが、ところどころ木の根が露出し、苔も生えていて、それなりの風情を醸し出し、四季を通じて訪れる人を楽しませてくれる。また、秋にはイチョウやシイの実を拾うこともできる。最近では平成十二(二〇〇〇)年に植えた枝垂桜も花を咲かせるようになり、みんなの眼を楽しませてくれるようになった。
 集落の南東、市道に面したところには湧き水があり、昔は小屋を建てラムネを製造していた。今は、夏場は、野菜を冷やしたり、洗い物に使ったり、道行く人が飲み水として利用している。

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山宮 頑張れクロボコ

 山宮は旧逢坂村の中心地で、役場・小学校・農協・警察駐在所などがあった。
 クロボコ(火山灰)で覆われた耕地は、水田が少なく畑作が中心の農業である。戦前は養蚕が中心であったが、第二次世界大戦となり、食糧増産政策により小学校の校庭を含みすべての畑がサツマイモ畑となった。戦後は、スイカ、春ダイコン、キャベツ等が作られるようになったが、県下でスイカを県外出荷したのは、逢坂農協が最初であった。
 昭和二十五(一九五〇)年頃から二十世紀梨の植栽が始まったが、桑の残留病の白紋羽病によりあきらめる農家も出た。その後、農作物の不安定時期に入り、重労働ではありながら安定収入を狙い契約栽培の葉タバコが導入されて収入も増え、昭和四十五年から五十年にかけて新築ブームとなり、山宮のよき時代であった。
 現在ではナシ・施設ブドウ・施設野菜・養豚などとあわせて、高齢者・退職者などによる農産物直売用の野菜・花作りが盛んに行われている。
 農産物価格の低迷や減反、また農業従事者の高齢化や後継者不足など問題山積の状況ではあるが、山宮を限界集落にしないよう、みんなでがんばろう。
逢坂小学校 画像
逢坂地区の中心地「逢坂小学校」

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睦逢 地蔵さんの由来

地蔵さん 画像

皆に親しまれる逢坂地蔵さん
 睦逢の集落をほぼ南北に貫く道がある。この道を南に向かって進んでいくと、少し西側に入り込んだところに、北北東に向かって地蔵尊が安置されている。
 裏には「宝永三年丙戌年六月日 願主見佐」と刻まれている。宝永三年は西暦一七〇六年で、徳川五代将軍綱吉晩年の時代である。
 「逢坂村誌」によると、「見佐は森本紋太の屋敷跡にも供養塔を建てており、同家の元祖と思われる」とある。また、将軍綱吉には世継ぎがなく生類憐れみの令が出ており全国随所に子宝地蔵の建立が流行して信仰を呼んでいる。睦逢地蔵もその願いとして建立されたものと推測される」とある。
 この地蔵さんの脇からは年中絶えることなく清水が流れ出ており、この水を汲んで帰って飲用している人もある。
 昔は小学校から下校の折、この水で渇いたのどを潤したり、地蔵さんに供えられた水をイボにつけると治るといわれ、つけたりしたことがある。

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会下 新妻歓迎会

 会下は気高町西部、逢坂谷の谷口近くの西方山麓に位置する。集落内を県道鷲峯気高線が南北に走っている。
 「勝見名跡誌」よると、鹿野町寺内廃寺跡(宝照時という)の大衆が集会した寮舎を山に立てたのを「高会」、平地のものを「会下」と言っていたのが、村名になったとしている。
 エ「会」の語は多くの人の集まって行う祭事、またエゲ(会下)は師の膝元で修行する所、一寺を持たないで学寮にいる僧のことである。これらの仏教語から、山下にあった所、「会下」としたと思われる。
 会下では、新しくお嫁さんがこられる度に若夫婦が中心となり、歓迎の宴席を設けている。
 結婚を祝うことはもとより、お嫁さんに一日も早く集落の生活に慣れてもらえるように、また、今後とも良い付き合いをしていきたいという思いから続けてきた。
 昨今、農村部においても生活形態の都市化が進むなか、意義のある事業ではないかと自負している。 なお、今回協力いただいたのは、最新の新郎新婦、久野慶太・陽子御夫妻である。

新妻歓迎会 画像
早く生活に慣れてもらおうと若夫婦を歓迎

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郡家 田中古代子のふるさと

郡家で生まれた作家田中古代子を紹介する。

一八九七年

明治三十年

現気高町郡家 田中石蔵、クニの長女として三月十日に生まれる

本名はコヨ

一八九九年

気高町勝見に転居

一九〇四年

正條小学校入学

一九一〇年

鳥取技芸女学校入学

一九一二年

(大正元年)

気管支炎療養で長期欠席のため、技芸女学校退学

一九一三年

大学通信講座に入って、英語、国文を学ぶ

「女子文壇」や「女学世界」の文芸誌へ投稿を始める

一九一五年

山陰日々新聞社に入社 十九才の若さで県下初の女性記者となる

結婚

一九一八年

離婚

一九一九年

古代子は自由な身となって創作に没頭し、本格的な作家の一歩を踏み出す

一九三五年

(昭和十年)

古代子三十七歳、睡眠薬を大量に飲み、自ら命を絶つ

(「田中古代子集」 年譜より)

時代は違えど同じ地に生まれ育った女性が、その時代の最先端を生き、短い生涯を駆け抜けていった。彼女の残した作品にもっと興味を抱き、触れていただきたい。

田中古代子 画像
郡家で生まれた作家「田中古代子」

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高江 慶寿院 禅匠 睦州道費大和尚略伝

睦州道費大和尚の墓所 画像
睦州道費大和尚の墓所
 睦州道費大和尚は慶寿院十一世の住職で、禅定(座禅の奥義)を極めた大宗師であった。
 法美郡中河原(現鳥取市国府町)に生まれ、十一歳の時仏門に入り、五年後、天徳寺において僧になった。二十五歳で一寺の住職となる。
 その後、何か寺かの住職としてまた、禅僧として探求を重ね、四十六歳のとき請われて堂宇の荒廃していた慶寿院の住職となられた。以来、本堂・鐘楼等諸堂伽藍の復興を成し遂げた。
 寛政九(一七九七)年三月二十一日、禅の奥義を極めていた睦州道費大和尚は、七十一歳を迎えた。十日後の三月三十一日、奇麗に剃髪し洗浴されて、涅槃衣着に替えられ、諸堂を拈香巡拝しながら生前の謝辞を述べられた後、定(悟りを開かれた人が生きながら極楽浄土に行かれること)に入られたという。
 当院裏山の傾斜面に約二メートル四方の入り口を切石で閉塞した横穴墓がその遺跡である。

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浜村 活発な子ども会活動

 現在、浜村子ども会のメンバーは、小中学生合わせて十四名となっている。
 子ども会の主な行事としては、春祭りへ参加や夏休みの宿泊体験、奉仕作業等だが、それ以外にも適宣集まり、ワイワイガヤガヤとにぎやかに楽しんでいる。
 平成一九年の夏には、岡山県にある津黒高原にキャンプに出かけた。現地では、テントの設営や水泳、魚のつかみどりなどを行った。夕食は子どもたちがカレーづくりに挑戦、捕った魚を焼いて自然を満喫しながら、食べた夕食は最高だった。
 また、奉仕作業として浜村共同浴場の掃除を行った。浴槽のタイルの汚れを落とすことは大変だったが、皆で協力しながら掃除を行いとてもきれいにすることができた。その後、入浴のマナーについて話し合い、浴場は、私たちの生活の大切な場所として利用しなければならないことを体験の中で学習することができた。
 今後も、子どもたちが浜村で生まれ育ったことが、良かったと思えるような活動を行っていきたい。

浜村子ども会 画像
浴場清掃作業後のさわやかな笑顔

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温泉 古くからの温泉街

ゆうゆう健康館 足湯 画像
多くの人で賑わう足湯
 温泉は大字浜村地内、明治期国道の建設や山陰本線の敷設に伴って、浜村集落の西に続いて形成された集落である。
 温泉という名前は字名ではないが、集落の大半が温泉の発見によってできた温泉街の町並みであることが地名の由来である。
 現在の温泉通り(旧国道)は明治十年につくられたものである。もともとの街道は、浜村から小谷村(現気高町総合支所南東部)を経て勝見に行くものであった。新しい道路は浜村側(現温泉地区)を「浜村新道」、勝見側(現新泉地区)を「勝見新道」と呼んだ。「浜新(はましん)」「勝新(かちしん)」とも略称された。
 明治十七(一八八四)年に鈴木寛平が温泉を掘り当て、この街道沿いに旅館を始めた。新道沿いには浜村や勝見からも人が集まり商売を始め、次第に賑わうようになった。そして、浜村駅の開業などによって駅前の浜村新道は温泉街に変貌した。
 現在は、温泉街の旅館の数は減ったが、「ゆうゆう健康館けたか」や足湯の施設等が建ち、足湯を利用する人などで賑わっている。これからも温泉集落を皆で盛り上げていきたい。

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新泉 浜村温泉街の中心市街地

 新泉は、大字勝見地内の中央部、JR山陰本線の北側、浜村温泉集落西の旧国道沿いに形成された集落である。
 かつて「勝見新道」と呼ばれ浜村温泉の発見と発展に伴って賑わいを見せるようになった。浜村駅の開業、山陰本線の全通がそれに拍車をかけた。
 また、浜村駅の出入り口が北向きであることがいっそう新道(旧国道)側の発展を進めることとなった。県内外から汽車を利用して湯治に来る人も次第に増え、鳥取・倉吉への通勤・通学も多くなり、商店街に発展した。
 昭和三十(一九五五)年気高町誕生時に、大字勝見地内に新しい浜村温泉街ということをイメージして、新泉自治会が結成された。
 現在では、JR浜村駅・銀行・温泉旅館・商店が建ち並び、東接する温泉集落とともに浜村温泉街の中心市街地を形成している。
 行事としては、毎年四月の第三日曜日に薬師祭が行われる。青年団を中心に準備が進められ、船型の屋台に薬師如来の名代を祀り、太鼓の鳴り物入りで若者と稚児により町廻りを行う。当日は出店も出て集落総出で盛り上がっている。
薬師祭 画像
集落総出で盛り上がる薬師祭

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新町一区 子ども会活動

新町一区子ども会 画像
手作りケーキに挑戦
 新町一区では、将来の気高町を担う青少年の健全育成に重点を置き、各種事業に取り組んでいる。以下、平成一九年度の事業の一部を紹介する。
 七月二十八日に、新町一区の児童公園で納涼祭を行う。簡易プールを設置し、ヤマメのつかみ取りをしたり、肉や野菜などでバーベキューを楽しむ。
 十月十一日には、大山まきばみるくの里に貸し切りバス二台で遠足に出かけた。大山の雄大な自然の中に、草や木、花々に触れ、ゆったりとした時間を過ごした。また、手作りみるく工房でアイスクリーム作りにも挑戦した。
 十二月九日にはクリスマス会を行い、子どもたちがグループに分かれ、手作りケーキに挑戦した。
 他にも、毎年三月に六年生を送る会を行うなど、様々な事業を行っている。
 このような積極的な活動を通して、子どもたちに思い出を残すとともに、新町一区の魅力を伝えていきたい。

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新町二区 悲願のコミュニティーセンター

 新町二区は区画整理も行き届き、町内きって交通の便が良く、地理的条件にも恵まれている。そのため急速に発展し、昭和五十八(一九八三)年一月に発足した典型的な「寄り集まり新興集落」である。当初から、区民が一堂に会して活動ができる施設建設の必要性を認識し、昭和六十二年に、建設に向けて取り組むことになったものの、一部地域区民による集団分区騒動等、難題が生じた。しかし、最終的には区民一丸となって建設場所、土地の確保、資金面等の諸問題について協議、討論を重ね、平成七(一九九五)年三月に悲願の「新町二区コミュニティーセンター」が完成。
 とりわけ、建設場所が二区に中心部に確保出来たことによって、車の乗り入れが容易になり、しかも敷地内に駐車スペースがある等自慢の出来る二区区民唯一の財産施設となった。完成と同時に「管理及び使用規制」を制定して、二区の地域活動の拠点としての役割を存分に果たしている。
 このように地理的条件に恵まれたせいか、各方面からのスポーツ団体、PTA関係、企業等の利用が多く、今や愛されながらますます地域発展に貢献している。
コミュニティーセンター 画像
力を合わせて建設したコミュニティーセンター

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西浜 集落の成り立ち

西浜市営住宅 画像
私たちの暮らしている市営住宅

 西浜は、新町二区の北浜二丁目・三丁目に囲まれた地域である。
 地名の由来は、集落の所在地が浜村砂丘の小字名「西浜」にある。
 昭和五十四(一九七九)年三月に浜村区画整理地内の大阪市健康保険組合保養所南側に、鉄筋コンクリート三階建て三DK(部屋三室・物置・風呂場)の西浜町営住宅が完成した。建設費の一部は、簡易生命保険積立金融債を受けていた。
 翌、昭和五十五年に、入居者を中心に西浜自治体が結束された。世帯数は十二世帯であった。現在は、三棟の市営住宅が建っており、平成二十(二〇〇八)年一月時点では、三十六世帯が入居している。 市営住宅ということもあり、住民同士の関係が薄くなりがちである。
 集落として、特別な事業はしていないが、住民が住みよい環境となるように皆で努力していきたい。

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東浜 人と人とのつながりを大切に

 東浜は大字浜村地内に民間の宅地開発によって誕生した集落で、新町二区の地域に囲まれている。JR浜村駅と国道九号を結ぶ道路の東側から浜村川までの東西に長い方形の地域である。
 地名は、集落所在地が浜村砂丘の小字名「東浜」に由来する。
 平成七(一九九五)年、東浜自治会を結成する。世帯数は五十七世帯であった。
 現在は、八十世帯以上が生活しており、集落内に、スーパーマーケットやコインランドリーなどがある。
 新しい集落で特に施設もない中、公民館やゴミの収集場を住民で協力して建設するなど、皆で住みよい環境を作っていくため努力している。
 また、集落内にはアパートも多く、人間関係が希薄になりがちなので、地区公民館活動や、集落内での各種行事に積極的に参加することにより、人と人とのつながりを大切にするとともに地域活動の活性化を図っていきたい。
 自治会ができて、まだ十余年しか歴史がないが、将来に向けて住民が暮らしやすい自治会運営を目指している。
東浜公民館 画像
地域の活動拠点である公民館

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勝見 正和会

正和会 画像
正和会における老壮会の人たちによる踊り
 大正から昭和への改元を機に集落内の融和を図るために昭和三(一九二八)年に始まった行事。
 創始者は恩田精吉(農業・村議会議員)、横田源太郎(元小学校長)、矢野広造(黒住教神職)の三人。毎年、二月十一日の建国記念の日(昔は紀元節と呼んだ)を選び黒住教勝見中教会所で行われる。 かつては、語りの一節や劇が中心で昼食は村で作った握り飯と料理を食べ、当日は他の集落からも見物人が集まり、廊下も立席で埋まったという。戦時中も続けられ、戦後も住民の楽しみとして多くの参加者が見られたが、昭和四十年ごろを境にテレビの普及により出演者も次第に減少した。
 これを打開するため、近年では各班や子ども会・青年会・自警団・女性部・老壮会などによる寸劇や踊りに切り替え 、有志によるカラオケ大会も加えて会を盛り上げている。
 午前十時からの年賀者の祈願祭に始まり、十一時に式典、各班ごとに集まっての昼食のあと、午後から演芸大会に入る。老いも若いも一堂に会してのこうした行事が八十年以上も続けられていることは、県内でも非常に珍しいといえよう。

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グレースタウン 自治会発足

 グレースタウンは浜村駅南側、勝見東部に位置する戸数四十の四班からなる地区である。その歴史はまだ浅く、平成に入り民間業者が農地を宅地として造成したことに始まる。
 当初は戸数も少なく、いろいろと苦労も多かったようだ。そんな中、当時の住民が話し合い「あかり会」を立ち上げ、防犯灯を設置するなど安全維持に努めてきた。また、近年の戸数の増加に伴って、ごみステーションを設置するなど、環境の整備も徐々に進んできている。
 平成二十年から自治会として新たにスタートしたグレースタウンであるが、半数以上がここ数年に移り住んできたため、まだまだ住民の交流が図れていないのが現状である。
 まずは、歩道、広場、水路の除草、清掃活動などを協力して行い、住み良い環境にしていくとともに、そうした活動を通して人と人とのつながりを作っていきたい。また、子どもの多い地域であるので、子ども会活動を軸として、楽しく潤いのあるグレースタウンを目指している。
 まだ自治会として歩き始めたばかりだが、温かく見守っていただきたい。
グレースタウン 画像
集落を見下ろす景色

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栄町 野外研修場

栄町納涼祭 画像
集落皆で盛り上がる栄町納涼祭
 昭和四十三(一九六八)年頃に県道郡家鹿野気高線とJRに境を接する農地に町営住宅十八戸が建設されたのが始まりで、持ち家世帯も集まって、現在では六十戸ほどの歴史の新しい町ができた。
 特産品もなく、歴史もないが、若い者が多くみんな元気はつらつであり、運動会のリレーや集団ゲームでも毎年好成績を収め、多くの賞状が残されている。自治会は見よう見まねで運営され、役員をはじめ住民には大変な苦労があった。
 新しく建設された勝見大橋の橋下の空き地に、杉の原木を製材したテーブルや椅子を設置して団らんできる集会施設を作り、栄町野外研修場と名づけた。雨も防げて風通しもよく真夏でも涼しいので、ネコが昼寝をするだけではなく子供の遊び場に、集落のくつろぎの場にとよく利用されている。
 この研修場をメイン舞台に始めた納涼祭の開催は、平成一九年で十一回目となった。納涼祭はこれからも栄町の大きな行事として続けていきたい。

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八幡 八幡神社の狛犬

 新永江川の左岸、浜村保育所対岸に鎮座する八幡神社は、7百年以上前の鎌倉時代に応神天皇を祀って創建されたと伝えられている。現在の社は当時ほどの規模はなく、位置も現在地より多少違っていたのではないかと言われている。
 境内は総代をはじめ、老人会等の世話が行き届いていてきれい掃き清められており、秋にはイチョウの大木が黄葉明かりがついたようにきれいになる。 この神社の境内に名石工の川六の狛犬一対が奉納されている。川六(本名:尾崎六郎兵衛)は江戸時代末期に現在の鳥取市青谷町周辺で活躍した。
 狛犬は百五十年以上も前の作品であり、そのままの姿で伝わっている。川六の狛犬は彫が深く、顔立ちや尾にいたるまで丁寧な造りがなされており、大きな目と耳、尾により凄みを感じさせる。二対は口を開いているのと、閉じているのとで対になっている。
 八幡神社に参拝される際には、ぜひともその作品にふれ、今伝わる川六の思いを想像していただきたい。
八幡神社 画像
一対の狛犬と八幡神社

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下原 「亥の子さん」

亥の子さん 画像
「つと」をつく子どもたち
 下原に伝わる民族行事に「亥の子さん」がある。この行事は田の神様に感謝する収穫祭で、亥の子さんは、旧暦二月に各家から田んぼに降り、稲の生育を見守り、旧暦十月に家に帰ると伝えられている。また、イノシシが子を多く産むことにちなんで子孫繁栄と豊作とを祈るとされている。
 現在は、旧暦十月最初の亥の日の晩に各家がぼた餅を作り、神様にお供えしている。そして八歳から十三歳までの男の子たちが、「つと」を持って各家をつき歩く。「つと」とは、各農家でその年に収穫した新しい稲藁をきれいにそぐり、六十センチ程度に揃えた稲藁の中にミョウガの茎を入れて八~十か所を小縄で固く縛り、持ち手をつけて作ったものである。子どもたちはそれを一本ずつ持って、集落内(上条から下条にかけて)一軒一軒の門先で、大きな半円を描き元気よく「つと」を地面に叩きつけながら「今夜亥の子 亥の子つかんやつは、鬼産め蛇産め角はえた子産め」と大声で囃し立てる。
 囃しのあと、各家から子どもたちに祝儀が振舞われる。祝儀のほとんどが駄菓子であり、最後まで歩くと大きな袋が一杯になる。年々子どもの数が減少しており、藁も少ない状況ではあるが、伝統ある行事なので今後も続けていきたい。

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姉泊 八束水八号古墳

 姉泊は大字八束水地内の東部、逢坂谷の口部、鶴木坂の東の山麓に位置する。昔は「姉ヶ泊」や「姉ヶ茶屋」とも呼ばれていた。もともとは姫路村の枝郷であったが、享和三(一八〇三)年に地先新田として幕府に届けられ、天保五(一八三四)年に分村した。
 地名の由来は、鹿野城主亀井茲矩公が、村が出来たとき当座のまにあわせに、新在家(新しい村のこと)だから「姉ヶ泊]にせよと言われたことからこの村名がつけられたとされている。
 「姉」には小さい・細いという意味があり、「泊」は港の意味である。アネガドマリは、かつて鶴木坂の屋根の岬によって西風を避けた「小さい港」をなしていたのかもしれない。
 また、JR山陰線八束水トンネルのすぐ北側に八束水八号墳という古墳がある。全長三十八メートルで気高郡内でも有数の古墳である。この古墳には、葺石・埴輪・堀などは見られず封土も完全に残っている。出土品や内部構造についてはなにも分かっていないが、いまだに盗掘を受けていない処女墳である。
 県下でもこうした古墳は大変珍しいので、今後も後世は残す貴重な文化財として大切に保存していきたい。
姉泊公民館 画像
住民が一同に会する姉泊公民館

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姫路 百手の神事

百手の神事 画像
ユーモラスな鼻高面

 姫路神社は、姫路と船磯の氏神様である。毎年、四月の第四日曜日午前に例大祭が、午後二時半より県無形民族文化財指定の「百手の神事」が行われている。古くは一月二十五日だったが、明治四十二(一九〇九)年から四月二十五日になり昭和四十九(一九七四)年からは第四日曜日に変更された。
 神社に保存されている古文書によると、光仁天皇の御代の宝亀二(七七一)年、諸国に疫病が大流行した時、疫神を鎮めるよう勅令が発せられたことにより始まった。
 その昔、二本を一手として百手二百本を放ったと伝えられ、これが「百手の神事」の語源である。
 昔は全国的に行われていたが次第にうすれ、鳥取県下では、姫路神社に残すのみとなった。
 宮司は二夜三日の間社殿で潔斎して、家族とは別のなま火を使わない料理を食べ、神の権化となって「百手の神事」にのぞむ。そして、行列三順目に宮司は荒ゴモに垂れ下がる「的」に向かって十二本の矢を放つ。
 これにより、その年の吉凶を占うとともに、国家安穏、疫病退散、無病息災、五穀豊穣等を祈願する。

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船磯 絶好のながめ 魚見台

 気高町と青谷町の境界、国道九号沿いに魚見台と呼ばれる標高六十三メートルの高台がある。
 昔イワシの大群が押し寄せてきた時に、魚見師ろ呼ばれる老漁師が空模様を見て沖から寄ってくる魚を見張り、魚群を発見すると竹ざおの先につけた白い旗を振って、海の船に対して魚の位置を知らせていたとされる。このことからこの場所は「魚見台」と名付けられた。
 この魚見台から見下ろす浜村海岸でかつては、ホタテ貝(正しくはイタヤ貝)が三十~五十年周期に大発生し、ホタテ貝をとるため、重い「じょれん」とよばれる道具を船で引いていた。その漁の労働歌が「貝殻節」で、この魚見台には楽譜と歌詞を彫った歌碑が建っている。
 大きな穴のあいた覗岩と、展望所もあり、遠く広がる日本海と水平線、西因幡県立自然公園に指定されている海岸一帯を見下ろす展望のよさは抜群である。天気のよい日には因幡、但馬の山々や鳥取砂丘方面まで見渡せる。
 また、八月に船磯漁港で行われる貝がら節祭りの水中花火大会では、絶好の観賞場所となっている。
魚見台 画像
魚見台から眺める絶景

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宿 祭りが異なる上宿・下宿

神楽獅子舞 画像
県の無形文化財「神楽獅子舞」
 宿の呼称については、村上天皇第六皇子勝美親王が気多郡の郡主紀氏郷の娘桜姫を恋い慕い、この郷の叢屋に宿泊した事から宿村というと伝えられている。
 宿は中央部を東西の線で分け、南側を上宿、北側を下宿としている。
 上宿は加知弥神社の神領域、下宿は志加奴神社の神領域であるから祭日の異なっている。上宿には、金水山極楽寺があり、土居生寿寺の末庵である。本尊は十一面観音菩薩立像で昭和六十二(一九八七)年に町保護文化財に指定された。旧暦の七月十七日は縁日で、乳恵(乳の出をよくする)の祈願仏として女性の参詣者も多く、露天も並び、盆踊り、夜相撲の催しありにぎわっていたが、現在は新暦の七月十七日に近い日曜日に変更されて簡素な行事となった。
 志加奴神社の氏子である鹿野町上町の若衆による獅子舞は、県の無形民族文化財に指定されており、昔より気多地域内で行われているのはこの社だけである。
 四月二十二日に近い日曜日に行われる。例大祭には、二十分程度の本舞が隔年ごとに奉納される。そして二本木、重高、土居の順に所定のところで、あるいは個人の家の庭で本舞が行われる。最終の下宿に迎えるのは夕暮時になる。

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土居 「二十世紀のあゆみ」発刊

 土居部落誌の発刊については、集落の今昔、伝統行事を記録に残そうとの発案があったのがきっかけであった。
 平成十四(二〇〇二)年の集落新年総会で発刊を決議し、故中原茂編集委員長外十八人の委員が中心となって取りまとめ、決議から二年余りの年月を費やし、平成十六年三月末に土居部落誌「二十世紀のあゆみ」(B五版二〇〇頁)として発刊した。
 編集は、農業・教育・貯蓄・体育・敬老会等集落の生活と新興を基本としている。資料提供を全戸に呼びかけ、古文書や写真集を収集するとともに、「気高町誌」・「因幡誌」・「瑞穂小学校誌」等から貴重な文献や図表、昔懐かしい写真等を数多く取り入れ、住民が歩んだ一世紀に渡る業績を取りまとめている。
 構成は1:地名の由来2:位置・地形3:集落に変遷4:人口・戸数の推移5:町村合併と分村運動6:公民館7:農事実行組合の項目に分かれる。集落の先人たちが築き育んできた良き共同精神の伝統・郷土愛を伝える内容になっている。
 本誌は、鳥取市気高図書館や瑞穂地区公民館等でご覧になれるので、みなさまにもぜひ一読いただきたい。
土居部落誌 画像
集落の今昔・伝統・郷土愛を伝える土居部落誌

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重高 自慢話

重高 花植え 画像
皆で集落を美しくしようと花植え
 朝、目覚めると目の前に飛び込む田園風景。四季により私たちのこころを癒してくれる落ち着いた景色。場所は河内川左岸下流、瑞穂地区の中部に位置する。
 地名の由来は、「因幡誌」によると、弘治年間(一五五五~一五五八)備後国神辺城主杉原薩摩守盛重の嫡男で杉原入道重高というものが当地で亡くなり、また墓もあることからとされている。
 重高には石造観音坐像と普賢菩薩像の保護文化財があり、それぞれ四ッ堂・普賢堂に祀られていて、四ッ堂は八月十日に例祭が行われ、普賢堂では八月十三日に連提灯がいっせいに点され近所の参詣者で賑わう。
 昔の盆踊りについては、違う形で青年たちが引き継いでいる。三世代参加のグラウンドゴルフをはじめ花植えなど、老若男女が毎日いきいき暮らしている。
 農業が盛んな重高では、水稲の他に、特にショウガ作りが知られていて、生姜穴に貯蔵しておくと、一年を通して一定の温度・湿度が保たれ、いつでもおいしくいただけるので県内外での評判も上々である。
 今、重高は人口三十五人の小さな村だが、みんなの力でいきいきと心豊かなくらし・明るい村づくりを進めている。

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二本木 薬師毘沙門堂

 地名の呼称については、昔、村の前の田んぼにふた抱えくらいの古松と桜の老樹があった。このことから二本木村といわれるようになったと伝えられている。
 二本木には薬師毘沙門堂がある。これは土居の正寿寺の末庵で、本尊は薬師如来、観音菩薩、阿弥陀如来である。
 ずっと昔、この地に寺院があったがあったということだが、詳しいことは不明である。現在のお堂は二本木で祀られている。毎月、当番を決めて如来講、大師講が開かれ、盆、正月の二回、正寿寺の僧侶のお勤めがある。
 また、村の鎮守として字寺谷に小林神社が鎮座している。祭神は天照大神、月読命、保食神である。大正五(一九一六)年に、重高に鎮座の樽間神社、土居に鎮座の山崎神社の三社を志加奴神社境内に末社として合祀し、上坂神社と改称した。
 十四世帯と世帯数は少ないが、地区のスポーツ行事等にも積極的に参加しており、小さくともキラリと光る地域にしたい。
薬師毘沙門堂 画像
地域住民の心のより所「薬師毘沙門堂」

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下坂本 あじさい・コスモスロード

コスモスロード 画像
きれいに咲いたあじさい・コスモスロード

 下坂本は、瑞穂小学校から矢口に至る南北に長く伸びた約七十戸の集落である。
 考古学的に価値の高い西山一号墳(五世紀頃の築造、県内唯一の前方後円墳)が有名であるが、四社二寺一堂もあって歴史の名残りを感じられる。
 かつての米どころも現在は専業農家が少なくなったが、周囲の景観は一面田んぼである。その中を県道が走っていて、当地では「あじさい・コスモスロード」と呼んでいる。
 平成九(一九九七)年に「瑞穂の郷、花いっぱい作戦」の取り組みが始まり、下坂本も積極的に参加、協力してきた。公民館活動の一環として事業が計画され、実行委員会が組織された。いろいろな立場の代表が参画しているが、年間を通じた維持管理が必要であり、剪定・施肥・除草・種まき等、リーダーの熱意と住民全体のボランティアによって支えられてきた。
 瑞穂小学校の北側約一キロの集落沿いの県道は、初夏のあじさい(約三〇〇株)と初秋のコスモスが特に美しく、ドライバーや行き交う人の目を楽しませ、立ち止まって鑑賞したり、カメラを向ける人の姿も見受けられる。

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上高浜 自治会の設立

 上高浜の歴史は、昭和五十二(一九七七)年に宅地造成された砂の舞い上がる住宅地へ六軒が入居したのが始まりである。当時は何の施設・設備もなく、翌年一月より町営住宅(現市営住宅)の集会場を利用させてもらい活動を共にしてきた。
 二年後、住居者も三十軒ほどになり、有志数名を役員に選出し、町営住宅と分かれ、上高浜自治会を立ち上げたが、これといった施設・設備もない中、当時の人たちが会費を積み立て、苦労をして一つずつ作り上げていった。
 その五年後、当時の役員数名を保証人として銀行から公民館建設資金を借り入れ、待望の公民館を建設した。当時の会員数は約五十名であった。その後、力を合わせて街灯、消化設備、ゴミ置き場、公園設備等を成し遂げ現在にいたる。
 自治会が計画する施設・設備の設置、修理等に、会員で自らできる作業にボランティアで積極的に参加して出来上がったということは自慢できることと思う。

上高浜ボランティア活動 画像
住民参加のボランティア活動

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高浜 環境美化活動

高浜公民館 画像
住民の交流場所 高浜公民館
 このあたり一帯が開発されるまでは宝木から西の方を見ると日光の山が砂丘の陰に隠れて見えなかったという大砂丘「高浜」があった。この砂丘地を開発して宅地に造成したところから高浜とした。
 昭和四十九(一九七四)年度に十戸、五十年度に十二戸、五十一年度に八戸の合計三十戸の計画で町営住宅が建設された。
 現在の住宅は、平成十一(一九九九)年度から十四年度までの四年間に三十戸の改築が行われ、快適な居住空間となっている。
 寄り合い集落のため、これといった伝統的な行事・イベントがないが、今、全員っで取り組んでいることは、環境美化活動である。年間を通しその折々の花卉を植栽し、施肥から水遣り・除草といった一連の作業を行っている。
 また、地区公民館が行う各種の事業には積極的に参加し、連帯意識を高めるとともに、地区内住民との交流を図っている。
 これからも、この集落に来てよかったと思えるよう、皆で力をあわせていきたい。

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日光 ハクチョウの越冬地

 日光の水田の排水は、通常、ポンプにより行っている。これは、日光の水田の地盤が低いため海水面とあまり変わらず、自然流化での排水が困難なためである。さらに、十月頃になると台風の影響などで海が荒れ、排水はポンプをもってしても難しくなる。
 このようなことから、八月下旬より刈り取りに入り、九月中旬には終えるようになった。県内有数の早場米地帯として知られるようになった所以である。
 刈り取り後、水を溜め、池にするのは、水田内部の水位を上げ、海水の逆流を防ぐための先人の知恵である。
 さて、こうして池となった日光には、毎年十月下旬に百羽から一五〇羽のコハクチョウが越冬のため飛来する。
 越冬地としては米子の水鳥公園が日本の南限として有名であるが、この日光でも毎年美しい姿が見られる。
 このコハクチョウたち、日光の落ち穂を食べ尽くすと、昼間は近隣の瑞穂地区・宝木地区などの水田に移動し、夜は再び日光池で眠る生活を三月上旬頃まで送る。この十一月から二月にかけ、数百羽のカモも含め沢山の水鳥でにぎわう。間近で観察できるので、バードウォッチングにお勧めの場所である。
日光 コハクチョウ 画像
飛来したコハクチョウ

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酒津 トンドウ

トンドウ 画像
寒い中元気に走り回る子どもたち
 トンドウは、一月十五日に近い土・日・または祝日に、男の子たちが行う独特の民俗行事。平成三(一九九一)年一月に鳥取県無形民俗文化財に、一九年三月には国の重要無形民俗文化財に指定されている。
 トンドウは、まず中心に松を一本立て、その周りに十二本の孟宗竹を斜めに立てかけて円錐形の荒組を造る。松の先端には扇と鯛を取り付け、この荒組の周りにミノ組の注連縄飾りを何重にも巻きつけて完成。それに各家々の正月の縄飾りなどをつけ火祭りの準備が完了する。
 午後二時、裸足でパンツ一枚になった子どもたちは、海岸に出てモク(海草の一種)に海水をつけて、ぐるぐると振り回しながら声も勇ましくトンドウを三週した後、全世帯を「祓いたまえ・清えたまえ」と口々に唱えながら清めて回る。一軒ごとにこれを繰り返し約一時間あまり走り続ける。終わると子どもたちはいったん家に帰り、体を暖めた後トンドウ宿に集まってくる。
 そして、午前一時・二時・三時と子どもたち全員で村中をトンドウの前触れをして回る。五時には、トンドウに火が入れられ、人々は大願成就や無病息災を祈る。
 江戸時代にはすでに現在のような形が定着していたといわれる。酒津は、陸上交通路が整備される以前は山と海に囲まれた陸の孤島であった。こうした立地条件が近隣に例を見ないトンドウ行事を温存し得た理由のひとつであったと思われる。

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上光 いながらにして一流の文化に触れる

 平成十五(二〇〇三)年四月に「上光を楽しむ会」が発足した。
 この会の誕生は、気高町も鳥取市に編入合併することによって、これまでのような住民サービスは受けられなくなるのではないかという不安感があったことと、新しく百名くらい入れる上光コミュニティセンターを建設し、コミュニティ活動を活発したいという思いがあったことによる。
 こういう時こそ、自分たちの村は自分たちで守り発展させなくてはならない、自発的な機運を盛り上げることが大切だということで、数回にわたる話し合いの結果、三十名の賛同者ができ活動が開始された。
 毎年、一人当たり五千円の会費を出し合って会を運営し、一流の落語家や琴の演奏家招き、大人から子どもまでいながらにして、一流の文化を肌で感じながら楽しんでいる。
 平成十九年には楽しむ会結成五年目を迎え、昨年に続いて東京在住の演奏家である隋虹氏による中国琴演奏会を実施した。
 そして、平成十九年度の鳥取市民活動促進助成金も申請し、活動内容を紹介するなど積極性を発揮して、合併により行政の中心部からあ遠くなった農村で、文化の香り豊かな村づくりの発信を行っている。
楽しむ会 画像
皆が楽しみにしている「楽しむ会」

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下光元 霧島ツツジ

霧島ツツジ 画像
きれいに咲き誇る霧島ツツジ

 町の東部、河内川流域の中央の田園地域の東山麓に立地する。江戸時代には大杉・持木・山崎・三軒屋の集落からなっていた。
 下光元には、昭和五十五(一九八〇)年三月二十五日に町の天然記念物に指定された霧島ツツジがある。
 樹木は、土際周囲(根回り)〇.六二メートル、樹高約三.四〇メートル樹冠幅東西約五.五〇メートル、南北六.七〇メートルあり、推定樹齢は二百~三百年である。幹は、地上〇.五~一メートルの位置で大きく五ないし六本に分かれる。さらにそこから無数の小枝に分かれ、樹冠は大きく柄傘形に広がっている。花弁はやや細く、小さな深紅の花をつける。
 四月下旬ごろの開花時にはじゅうたんを敷き詰めたようでその威容は美しく、老樹の威厳があり学術的にも貴重である。
 下光元には、神宮神社や観音堂などの歴史を偲ばせる社寺もあり、近年発見された宝喜温泉で温泉を楽しむこともできる。
 また、おみくじによる吉凶占いが行われる観音堂例祭が毎年二月に開催される。

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夏ヶ谷 人権と福祉のまちづくりの発信地

 一人ひとりの人権が尊重される社会づくりは、すべての人々の願いであるが、様々な人権問題が十分保障されているとは言えない。
 夏ヶ谷には隣保館・児童館・老人憩いの家があり、人権文化を推進する学習や活動の拠点として諸事情に取り組み、集落以外の人と人の交流を図り生活・福祉・文化・健康・交流の向上をめざしている。
 毎年、隣保館では、差別をなくす文化を掘り起こし、発展させていくことを目的として、「気高町部落解放文化祭」が行われている。
 当初は、集落内だけの文化祭だったが、第八回目から「気高町部落解放文化祭」と名称変更し、町内各地の人々の参加を得るようになった。様々な作品が展示され、模擬店・バザーが開かれる。また、人権・芸能発表会があり、大正琴や和太鼓の演奏が行われる。平成十九年には第十九回の文化祭が行われ、多くの人で賑わった。
 今後も集落、行政、地域(市民)が一体となって施策・事業を推進し、人権啓発に取り組み、人権文化の向上に努めたい。
 一人ひとりに行き届く福祉こそ究極の人権尊重といえる。それゆえ、人権と福祉のまちづくりを今後の目標とし、その発信地となれるよう活動の充実・拡大をはかっていきたい。
気高町部落解放文化祭 画像
力強い和太鼓の演奏

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常松 常松の宝 千年のときをこえて

薬師如来座像 画像
集落に伝わる宝「薬師如来座像」

 常松の宝は、お薬師さまと薬師堂である。集落内に「寺谷」という地所があるが、その昔、「東福寺」という大きな寺があり、お薬師様はその寺に安置されていた。しかし、戦乱の時代に寺は廃寺になり、辻堂に安置されるようになった。その辻堂も天保八(一八三七)年、安政二(一八五五)年、大正九(一九二〇)年に火災等にあっている。
 現在の薬師堂は大正九年に建立されたが、老朽化が激しく平成十八(二〇〇六)年に大修理を行った。
 薬師如来坐像は約千二百年前、行基がこの地方を巡歴されたときの作で、材質はカヤの木である。本像は一本の木から七対の仏像が作られたものの一つで、この七体の仏像は当郡(気多郡)の七か寺に安置された。これを因幡七仏薬師といい、本像はその六番目のものである。
 お薬師様も長い年月に腐朽が激しく素木同様になっていたが、平成一六年から十か月をかけて修理をし現在に至る。昭和三十二(一九五七)年に県指定保護文化財に指定されている。
 お薬師様の行事には、一月のおみくじ祭、八月の千日参り等があり、常松の人々の心のよりどころとなっている。

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冨吉 こうぼこさん

 「こうぼこさん」は、子どもたちの祭りとされ、弘法大師の木像が年三回(正月・五月・九月)に家々を巡る儀式である。儀式は、こうぼこさんが次の家に移るときに行う。元々は弘法さんと呼ばれていたのが訛り、こうぼこさんになったと考えられる。
 昔は、子どもたちが「こうぼこさんにごーざんせーよ」の掛け声で村中にふれ回っていたが、今は有線放送を利用して周知している。集まった子どもたちには、昼食として精進料理が振舞われ、赤飯二つと副菜としてその家で採れた野菜類や油揚げ等の料理が出されたが、今はお菓子が配られている。
 儀式はこうぼこさんの木像に向かって正座合唱し、「光明真言」を数回唱え、お菓子をいただく。その後、子どもたちがお土産のお菓子を持って帰り、次の家にこうぼこさんが渡ると儀式は終わりとなる。
 大師の仏像は、黒ずみ、老朽化がひどい状態であった。そこで有志の方が化粧直しをし、美しく生まれ変わった像が使われている。
 大師が伝えたとされる真言は各地に残っているが、儀式と一緒に現代まで残っている集落は珍しく思う。今後もこの行事を大切にしていきたい。

こうぼこさん 画像
美しく化粧直しされた「こうぼこさん」

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宝木 自噴掘り抜き井戸

掘り抜き井戸 画像
昔の生活を支えた掘り抜き井戸
 宝木の名物である掘り抜き井戸は、明治二十一(一八八八)年に宝木の中央部二か所(新町と古町の各中央)に掘られたのが最初であるという。
 宝木は中国山地と日本海に挟まれ、そこを河内川が流れる特殊な地層にあって、自噴の堀り抜き井戸が掘られ共同使用されていた。
 掘り抜き井戸が出来るまではつるべ井戸が多く、昭和二十年代には村全体で三十数か所も掘られ、良質な水が溢れ出て一部には家庭の敷地内に掘られて生活用水として使用されてきたが水量は徐々に減少の方向にあった。
 昭和十五(一九四〇)年に製紙会社が設立され、地下水が工業用水として使用されだして以来、湧水量が激減して、渇水井戸も多くなり、昭和三十二(一九五七)年宝木簡易水道が供用されるようになった。
 簡易水道の水源は宝木部落中央の北側に位置し、揚水した水は母木坂中腹の貯水槽に送られ各家庭に配水されている。また、現在は近隣地域にも配水されている。

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水尻 豊かな自然とさかんな行事

 明治四十(一九〇七)年、山陰線が水尻池の南側に開通した。国策として米の増産計画を受け、大正時代に入ってまもなく人力による干拓工事が始められた。工事は困難を極めたが、米作りを可能とした。
 同時代から昭和五十年代まで米作りが続けられ、集落の生活の安定をもたらしたが、時代の流れや減反政策の煽りを受け今は元の池に戻り、周囲の景色に溶け込み豊かな自然醸し出している。また、コイやフナ等淡水魚が生息し時折訪れる釣り人を楽しませている。
 集落には、百年以上にわたり受け継がれている「おひまち行事」がある。毎年一月三日、板井神社宮司を招き、氏子が公民館で御祓いを受け、元旦から三日間宮司による五穀豊穣、豊漁、無病息災、家内安全を祈願したお神礼を授かる行事である。
 また、集落のほぼ中央、公民館北側のかつては砂山であった所が整備され運動広場が作られた。春は運動会、夏は納涼祭、また年間を通して愛好者によるグラウンドゴルフが行われ、ふれ合いと健康づくりの場になっている。広場の東側の砂場では、子ども達が滑り台やブランコで遊ぶ姿が見られる。
 六月の第二土・日曜日に行われる国指定重要無形民俗文化財「水尻の菖蒲綱引き」の奉納相撲では、賑やかな声援がひびき、広場の奥一段階高いところで、その相撲を氏神様が静かに見守っている。

菖蒲綱引き 画像
激しい勝負を繰り広げる菖蒲綱引き

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奥沢見 自然豊かな里をめざして

奥沢見 ホタル飼育所 画像
ホタルを取り戻すための幼虫飼育室
 奥沢見は日本海より南に二キロほど山間に入った静かで自然豊かな村であった。ところが近年は、生活の変化に伴う河川の汚れ、水田・里山の荒廃、田畑での農薬の使用等で、川の魚、イナゴ、ホタルなどがめっきり減ってしまった。もう一度以前のように川には魚、夏の夜はホタルが飛び交う「奥沢見」にしたいと皆で話し合った。
 「農地・水・環境保全向上活動支援対策事業」を活用し、集落の環境保全への取り組みを始めた。まず、全員で遊休農地の草刈り、河川の掃除を行った。これに加えて、再生チームを作りホタルの飼育に取り組んでいる。飼育方法を研究し、餌になる貝を捕り、作業場を改造して飼育場も作った。来年は遊休農地をビオトープにして、ホタルの増殖を検討中である。
 ホタルが飛び交う自然豊かな奥沢見を目指している。

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