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用瀬どこだらポイント

  用瀬のまち(用瀬宿)の概要

 

  現在の地点に用瀬の集落ができたのは、戦国時代の終わり頃であり、古用瀬の出村としてできた。この村が次第に発展するようになったのは、磯部氏が景石城(かげいしじょう)の城主となり、城下町として形態を備えるようになってからである。(下城、御屋敷、馬洗場、屋敷下等の名前や形態が残っている。)

 

  1615年(元和元年)には景石城は廃止となったが、その後参勤交代や産業の発達のため交通が頻繁になるにつれ、この町は発展していった。

 

  用瀬の宿には、現在の用瀬・佐治地区の大庄屋・宗旨庄屋がおり、宿に指定されるとともに、御茶屋本陣が置かれ駅馬の配置や、御制札場・目安箱・牢獄も設置され、さらに用瀬御目附も置かれた。

 

   町内には各種の屋号を持つ家が多く、讃岐屋、余戸屋、佐治屋など近郷の地名や、但馬屋、紀州屋、近江屋、土佐屋など他国名の屋号、更には米屋、油屋、豆腐屋、御茶屋など家業をあらわす屋号があり、商工業により発展するとともに、各方面からの人たちが集まってできた町といえる。

 

      上方往来は宿の北から南へ町内を貫き、道の中央に小川が流れており、月に6回、2と7の付く日に市が開かれた。

  

 

用瀬宿どこだらポイント

1 流しびなの館

 昭和61年、京都「金閣寺」をモチーフに、頂部には流しびなをかたちどった相輪をのせ、「全国のひな人形を常設展示する施設」として建設。

2 渡し場・ふれあいの水辺

 この近くには「佐治往還」の渡し場があった場所。用瀬の伝統文化「流しびな行事」が旧暦3月3日に行われ、着飾った子どもたちのひな流しに、観光客や写真家で賑わう。

3 御茶屋本陣跡

 「御茶屋」とは大名の宿泊、または、休憩に使用された場所。

4 瀬戸川(せどがわ)水車設置跡

 瀬戸川には最盛期17基の水車が、精米・製粉・製材などで稼働していた。

5 造り酒屋跡

 用瀬には三軒の造り酒屋があった。

6 番所跡

 幕末の慶応元年(1865年)から明治4年までの6年間、この場所に番所が置かれた。

7 愛宕山(あたごさん)公園 

 約1,500本の濃いピンクのミツバツツジが群生し、公園全体を彩る。(4月上旬が見頃)

8 文学の小径(こみち)

 用瀬に関係の深い歌人の歌碑が、道路沿いに23基設置。

9 大善寺のしだれ桜

 樹齢120年といわれている。(4月中旬が見頃)

10 佐治往還と石橋

 千代川(せんだいがわ)川岸の渡し場に通ずる、かつて佐治街道。沿線の瀬戸川に架かる石橋は江戸時代の貴重なものである。

11 東井(とうい)神社

 祭神はスサノウノ命・大国主命、瀬織津姫命など6体、現在の社殿は明治5年に鳥取藩の尚徳館から移築したもので、九曜の紋とともに池田藩の揚羽蝶の紋が随所に見られる。(例大祭は5月3日)

12 一の谷公園

 約600本の濃いピンクのミツバツツジが公園内を彩る。4月中旬が見頃)

13 三角山・三角山神社

 海抜516mの三角山は、猿田彦の命が皇孫高千穂行啓にお供の途中、ここに滞在されたことから「御栖山」と言われていた。山頂には、影石・重石・冨士石・天狗石・万灯石と名づけられた巨岩が、72平方メートルばかりの平地にある。

 三角山神社の祭神は「猿田彦大命神」で鋒錫大権現と言われ、俗に「鋒錫さん」「権現さん」「お山さん」と呼ばれている。

14 景石城(かげいしじょう)跡

 景石城跡がある山は、「お城山」と呼ばれ、海抜325m。天正8年(1580年)秀吉鳥取攻めの時、この城を攻略し、「磯部兵部大輔」を城主とした。

 

 

 



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