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用瀬町の歴史

■用瀬町の歴史

 

 

 用瀬の大昔の生活を示す遺跡としては、鷹狩遺跡、余井遺跡、 余井唐堀遺跡などがあり、これらの遺跡からは縄文、弥生時代に使われた石斧や土器などが発掘されています。

 また、鷹狩、余井、古用瀬などでは古墳が発見されており、用瀬周辺にはかなり古い時代から人々が住んでいたようです。

 

 「用瀬」の地名は、「因幡誌」によると中世のころに八上郡弓河内(現在の河原町)の人が持っていた記録の中に初めて現れます。

 戦国時代末期、因幡を領有していた山名氏の家臣である用瀬氏は、秀吉来攻の折の鳥取城に篭城した後、用瀬に戻って現在の用瀬を開きました。

 

 秀吉来攻により用瀬の景石城は落城しましたが、新たに入城した磯部氏の城下町として次第に発達を遂げました。

 古くから都と因幡を結ぶ街道が通っていた用瀬は交通の要所であり、藩政時代には、参勤交代に訪れる大名らの休憩所として宿場町としても栄えます。また、鳥取藩の目付も置かれ、政治、経済上の要地としての発展期を迎えます。

 一方、三角山(みすみやま)山頂の鋒錫大権現(ほうしゃくだいごんけん)は創建が古く、昔からこの地方一帯の聖地として、多くの修験者たちの修行が長く続くとともに、多くの参詣者が訪れました。

 また、松尾芭蕉をはじめ、多くの俳人、歌人も用瀬を訪れ、多くの句を残しています。

  このように、江戸時代中期から末期を最盛期として、用瀬は政治・経済・文化的繁栄が続きました。

 

 

 その後用瀬は明治維新を迎え、明治8年までは20村、その後明治22年まで14村、明治22年には大村、用瀬村、社村の3村となりました。

 大正7年、用瀬は町制をしき、翌8年鳥智軽便鉄道(国鉄因美線)の鳥取~用瀬間が開通し、産業、経済の変革期を迎えました。

 戦後、昭和30年3月31日、大村、用瀬町、社村の1町2村が合併して、用瀬町が発足し、用瀬地区に用瀬町役場が置かれました。

 

 平成16年11月、鳥取市と合併し今日に至っています。

 



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