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今年作庭150周年を迎えた宝隆院(ほうりゅういん)庭園越しに城内を望む

特集
今に伝わる鳥取城の歴史

国史跡『鳥取城跡(じょうあと)』は、久松山(きゅうしょうざん)にある本市市街地の景観的・歴史的シンボルです。この街の宝といえる鳥取城を守り、その価値を次の世代に広く伝えていくために、史跡の保存整備計画が進められています。

問い合わせ先
第二庁舎文化財課電話0857-20-3359

日本(ひのもと)にかくれなき名山」に築かれた城

山陰海岸ジオパークのジオスポットでもある久松山。大地が育んだ急峻な地形を持つ山並み、そして山頂からの眺めは、多くの人たちを楽しませています。

この山に城が築かれたのは戦国時代のこと。歴史的に著名な羽柴(はしば)(後の豊臣(とよとみ))秀吉の兵糧(ひょうろう)攻めに対した名将・吉川経家(きっかわつねいえ)は、防御性や眺望に優れたこの山を「日本にかくれなき名山(一番素晴らしい山)」と称しました。

このころまでの鳥取城の姿は、自然地形を巧みに利用し、山を削るなどして造られた「土の城」でした。よく知られた「石垣の城」としての姿は、秀吉の重臣として活躍した宮部継潤(みやべけいじゅん)の時代に整備が始まり、世界遺産で著名な姫路城を築いた池田輝政(いけだてるまさ)の弟・長吉(ながよし)や輝政の孫・光政(みつまさ)の時代の拡張を経て、今日残る城跡の景観が整いました。その後の鳥取城は、江戸幕府の許可を得ながら鳥取藩32万石の居城として、各時期に応じて必要な整備が行われていきました。

このような歴史的経緯を持つ鳥取城跡には、さまざまな時代の遺構が残されています。これらの学術的価値が高く評価され、昭和32年に、鳥取城跡は太閤ヶ平(たいこうがなる)(兵糧攻めの際に羽柴秀吉がいた本陣)と共に国の史跡に指定されています。

なぜ建物は残っていないのか

明治時代に入ると旧藩主所有の城郭は政府によって国有化され、政府は城跡を財源として売却したり、軍事施設として使用したりしました。明治6年、軍事的な必要性が認められた鳥取城は、二ノ丸三階(やぐら)や三ノ丸御殿などが軍の施設として再利用されました。しかし、日本最後の内戦とされる西南戦争が終結すると、国内の治安が安定。軍事上の必要性が無くなった鳥取城では、明治12年、残された建造物のほとんどが解体されました。明治22年、三ノ丸跡は陸軍によって鳥取県に無償貸与され、鳥取県尋常中学校(現・県立鳥取西高等学校)が移転新築。翌年、再び鳥取城は池田家の所有となり、明治40年には、現在は国の重要文化財にも指定されている仁風閣が竣工しました。

昭和19年、池田家は鳥取大地震1周年記念事業として市に久松山全体を寄贈。鳥取城は名実ともに市民の城となりました。

街を一望できる絶景と国内唯一の石垣

鳥取城には、建物こそ残っていませんが、さまざまな見所があります。天守のあった久松山山頂からは、本市の街並みや日本海、湖山池などさまざまな景色を楽しむことができます。また、春の桜、秋の紅葉といった季節の変化に加え、山頂から見る日の出や夜景など時間による変化も必見です。

もう一つの見所は石垣。クランク状に築かれた石垣は、敵の侵入を困難にしています。城に攻め入る武士の気持ちになって城跡を巡るとその迫力を一層感じられます。また、『巻石垣(まきいしがき)』と呼ばれる球面状の石垣が見られます。これは既存の石垣を支えるように造られており、耐震補強のような役割を持っています。城郭に用いられる事例は全国でも他に例がなく、国内唯一の事例とされます。

観光地としての活用を視野に整備

お堀に架かる擬宝珠橋(ぎぼしばし)(現・大手橋)から城内に至るルートは、『大手登城路(おおてとじょうろ)』と呼ばれる鳥取城のメインルートがありました。道中には城の正面玄関である『中ノ御門(なかのごもん)』と、時刻を知らせる太鼓をならした『太鼓御門(たいこごもん)』という2つの重要な門があり、これまでの調査によって、これらの建物跡が良く残っていることが分かっています。

国史跡での建物の復元には、文化庁長官の許可が必要です。また、「礎石や写真、絵図などの、建物の形が判明する資料が残されていること」などの条件をクリアしなければなりません。そこで、市教育委員会では、『鳥取城跡保存整備基本計画』を策定し、城の骨格を示す正面玄関である登城路の復元から着手することとしています。現在まで、地下に眠る遺構の確認や絵図などの資料による研究を繰り返し行ってきました。平成26年度からは、本格的な工事が始まる予定で、平成30年度内の主要建物復元完了をめざしています。

鳥取城に関する出来事
年代出来事
16世紀
中ごろ
因幡山名氏、但馬山名氏のいずれかによって築城
1562年武田高信(たけたたかのぶ)が久松山を拠点として、当時因幡を支配していた山名氏に反逆
1573年武田高信を退けた山名豊国(やまなとよくに)、布施天神山城から久松山鳥取城に拠点を移す。
1580年羽柴秀吉の第1 回鳥取侵攻
1581年羽柴秀吉第2 回鳥取侵攻により、吉川経家のろう城する鳥取城は落城。宮部継潤が鳥取城主となる
1600年関ヶ原合戦後、池田長吉が鳥取城主となる
1617年池田光政が城主となり、城下町とともに城の大改修を行う
1632年池田光仲(みつなか)が鳥取藩主となる
1692年天守が落雷により焼失
1720年城下町の大火により鳥取城も延焼
1807年このころ、天球丸の巻石垣が築かれる
1879年鳥取城の建造物がほぼ解体される
1907年扇御殿跡に仁風閣が建てられる
1944年鳥取大地震1周年を期に、池田家から寄贈を受ける

鳥取城跡データ

【国史跡指定の理由】

  • 織豊時代から近世徳川時代に移行する転換期の歴史に深い関係を持つ史跡であること
  • 城跡の構成が、山城的形式を残す山上ノ丸と中腹の砦群等の古い城跡遺構に対し、近世的城郭形式を残す山下ノ丸を中心とする新しい城跡遺構が新旧重層して併存すること等が学術的に高く評価されること

【指定の範囲】

久松山ほぼ全山と太閤ケ平968.324平方メートル

【指定の経緯】

  • 昭和32年12月18日
    鳥取城跡のある東町地内と太閤ケ平のある滝山・百谷地内668.663平方メートルが史跡に指定される
  • 昭和62年8月10日
    円護寺側299.661平方メートルを追加指定。久松山ほぼ全山が史跡となった。
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▲内堀から見る秋の鳥取城跡

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▲『二ノ丸・三階櫓跡』から見る街並

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▲太鼓御門から二ノ丸・天球丸へ向かう道中にはクランク状に配置された石垣が待ち受けます

※工事中のため通り抜けできませんが、御台(みだい)跡からご覧いただけます

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▲今年3月に復元された『天球丸巻石垣前広場』。巻石垣と江戸時代の絵図などを基に石組水路なども整備されています

※周辺工事で立ち入りできませんが、天球丸からは常時ご覧いただけます

オススメの景色を募集中!

「久松山周辺撮影スポット情報」を募集しています!まちの魅力が堪能できる最高のビューポイントを教えてください。

※応募方法など、詳しくは市公式ホームページをご覧ください。

問い合わせ先本庁舎都市企画課 電話0857-20-3271
鳥取城大手登城路復元イメージ

江戸時代の城郭を再現
~大手登城路復元整備計画~


▲江戸時代末期に撮影された大手登城路
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▲9月29日(日)、鳥取三十二万石お城まつりに合わせて、大手登城路復元整備に伴う発掘調査の現地説明会が行われました。およそ100人が参加し、文化財専門員の解説を聞きながら、江戸時代の遺構や出土した遺物などを眺めていました。

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▲市教育委員会は、毎年鳥取城フォーラムを開催し、大手登城路の復元整備の進捗について市民のみなさんに報告しています。今年は7月13日(土)に開催し、県内外から200 人を超える人たちが来場しました。

工事図

鳥取城跡内での工事のお知らせ

鳥取城跡内では、現在、石垣の保存修理や久松公園の再整備のための工事を実施しています。工事中は一部通行できない箇所があります。ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします。

【工事内容】

  1. 石垣の解体修理
    (~平成26年3月末)

    崩落の恐れのある石垣を解体して積み直します。

  2. 石垣の崩落範囲確認調査
    (12月頃~平成26年3月末)

    堀の水位を下げ、崩れた石垣の範囲を確認します。

  3. 久松公園の再整備(~12月中旬)

    ベンチの更新や園路の整備を行います。

問い合わせ先
石垣の保存・修理工事に関して

第二庁舎文化財課電話0857-20-3359

久松公園の再整備に関して

本庁舎都市環境課電話0857-20-3273