天文セミナー 第151回
『日本の民間天文台(T)倉敷天文台』『日本の天文アマチュアの活躍(T)彗星観測』
明けましておめでとうございます。本年も、この天文セミナーを書き続けようと思いますので宜しくお願いします。何しろ、このシリーズを始めてすでに151回目になり、12年半を経過しました。我ながら、これほど長期間に渡りよくも書き続けられたことと感じますが、今後とも佐治天文台を宜しくご支援いただきたいものとお願いします。 |
倉敷天文台と言えば、新彗星発見で第一人者と讃えられた本田実氏を忘れることはできません。現在の新彗星の発見は主に全天をサーベイしているプロの天文学者によってなされていますが、それまでは殆どの新彗星発見はアマチュアの人たちによる眼視観測によって実施されていました。日本で初めて彗星を発見したのは井上四郎氏だろうと言われていて、井上氏は1902年10月と1903年7月にそれぞれ彗星を発見しましたが、残念ながら世界最初ではありませんでした。続いて、1919年には佐々木哲夫氏が発見していますが、この彗星は既知の彗星の回帰でした。その後、多くの観測者が彗星発見に挑戦しましたが成果が上がらないのが実状でした。1930年代になるまで、我が国では彗星に関する書物は一冊も出版されていませんでした。これを憂いた神田茂氏(1894から1974)が『彗星』を著して、彗星に関する世間の関心を呼び起こす切っ掛けを作りました。さらに、神田氏はこの他に、『彗星と流星』、『彗星の話』を著し、そのうちの『彗星の話』に、啓発されたのが他ならぬ本田実氏だったのです。鳥取県八頭郡八東町に生まれた本田氏は、生家の農業を手伝う傍ら、新彗星の発見を希求し、やがて生涯に12個の新彗星を発見していますが、その総てを望遠鏡による肉眼観測で果たしているのです。この本田氏の発見に刺激されたのが高知に住む関勉氏、さらに当時浜松在住の池谷薫氏でした。この池谷氏と関氏によって発見された池谷・関彗星が太陽に非常に接近し、その後長大な尾を見せるようになると、日本での彗星発見の機運が急上昇し、ついに「彗星王国日本」とまで言われるようになったのでした。日本人が新彗星の発見を殆ど独占するまでになった頃のことです。私はある国際会議に出席していました。その会場で、参加者の1人から「日本人の活躍の背景は?」と、質問されたのでした。私は、日本人の好奇心の強さや勤勉さとともに、憲法第9条があることを話したのでした。質問者は、好奇心や勤勉さは理解できるが、何故憲法第9条かと不審に感じたのでしょう。そこで、憲法第9条に明記されているように「戦争放棄」がもたらす兵役の義務からの解放が、青年時代の背景に大きく関係していると、応えたのでした。聞いてみると、多くの国では20歳前後から数年間を兵役に就くことが義務とさられているのでした。こうして、長い間「彗星王国日本」の名誉が保たれ続けたのでした。新彗星発見やその他にも活躍しているオーストラリアのマック・ノート氏は、本田氏の活躍に強く啓発され彗星観測に参入したそうです。 |
2010年1月の星空 (ここをクリックすると大きな画像になります) |
次回も、お楽しみに |