天文セミナー 第148回

『日本の天文の歴史(V)』『日本の望遠鏡(V)』



日本の天文の歴史(V)

 日本の天文の歴史は、今までにも書きましたように中国から渡来した「観象授時」が、その目的でした。従って、中国からの新知識が渡来するまでは、日本独自の発達は見ることができませんでした。つまり、天文台と称して天象を観測してその示す意味を解き明かそうとするような試みは江戸幕府によって開かれた天文台(浅草天文台)が暦の作成に携わるまでは、全くといってよいほど記録に見ることができないのです。
 ただし、その間でも吉備真備によって天平7年(735年)に中国から新しい暦や天体観測の道具がもたらされ、天文と暦が同列に考えられ始めると、暦の改定のための天体観測が行われようとし始めたのでした。しかし、これも当時は暦に関係のある事象や天の異変とでも言えるような現象に限られていて、多くは公家の間に流布していたもののようです。平安朝初期の陰陽家・賀茂保憲(やすのり)(?から977年)の時に歴道を実の子・光栄(みつよし)(939から1015年)に、また天文道を安倍清明(921から1005年)に伝えたという記録が残されていて、天文と暦が分離し、暦を賀茂家、天文は安倍家(土御門家)の家の学問になったのでした。天文と暦が分離してそれぞれの方向に進むなど、暦といえば誰でも天文を思い浮かべる現在では思いも及ばぬことではないでしょうか。
 さて、長い空白時代を過ごして来た日本の天文観測の歴史ですが、世界の情勢にも大きな違いはありませんでした。即ち、ちょうど同じ頃のヨーロッパはいわゆる中世の暗黒時代といわれる頃に相当します。この暗黒時代の夜明けとも言われるのが文芸復興・ルネッサンスなのです。この頃に多くの俊才が現われ、コペルニクスやガリレオ、さらにケプラーなどが天地をひっくり返して地動説を公表し、ニュートンによって確定したのでした。日本も、この事実を鎖国中にもかかわらず手に入れ新しい天文学の機運が芽生えてくるのでした。渋川春海は元禄2(1689)年に江戸本所二つ目の自宅内に天文台を築いたが、元禄16(1703)年に江戸駿河台の新屋敷にこの天文台を移築したというそうです。もっとも、この天文台も暦の編纂に役立てようというもので、天体観測が目的ではなかったのでした。
関連する小惑星(5466):Makibi(吉備真備)、(5541):Seimei(安陪清明)、(9254):Shunkai(渋川春海)。


日本の望遠鏡(V)

 さて、皆さんは映画などで見たことがあるのではないだろうかと私が勝手に思っているものに、占い師が暗い蝋燭の光の中でもったいぶって両手でさするようにしながら覗き込んでいる「水晶玉」。未来を予見するとも予告するとも言われている水晶の玉です。
 これと同じものという訳にはいかないでしょうが、真の球状に磨かれたガラス玉、または無色透明なビー球。もし、どちらかが手元にあれば実験してください。文字が書かれた紙、ここでは新聞などが最適でしょう。この上に透明なガラス球を置き、上から覗いてみてください。下の新聞の文字が大きく拡大されて見えることに気付くでしょう。このガラス球はもっともシンプルな拡大鏡だったのです。昔、ペルシャなど砂漠の国で、砂の上で焚き火などをすると、焚き火の燃えカスの中にガラスの塊が作られることがありました。このガラスの塊に初めて気付いた人が、拡大鏡の発見者となったのでした。残念ながら名前などは不明ですが。人類がはじめて手にした、光学系だったのでした。
 今では、ガラス製品は身近に溢れていますが、一寸試してみると意外な発見があるかもしれませんね。こうして、ガラスを手に入れた人類は、時の経過と共に加工技術をも手に入れることになるのでした。
 望遠鏡の発明はオランダの眼鏡師・リッペルスハイと言われていますが、これは多くの謎の包まれていて発明者は定かではありません。この望遠鏡の発明より前に顕微鏡が発明されていて、望遠鏡が発明されたときには逆顕微鏡だ、とも言われたそうです。
 南天の星座を見ると、この顕微鏡と望遠鏡が仲良く夜空に懸かり、地上を見下ろしています。これなど、当時の新発明の器具を天に上げて、その威力や魅力を後の世まで残そうとした思いの現われでしょう。



2009年10月の星空

(ここをクリックすると大きな画像になります)
2009年10月の星空です。
今年は世界天文年2009です。
秋の星たちがたくさん見られるようになってきました。
そろそろ木星の見ごろが過ぎてきました。
望遠鏡で観察はお早めに。


次回も、お楽しみに

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