天文セミナー 第147回

『日本の天文の歴史(U)』『日本の望遠鏡(U)』



日本の天文の歴史(U)

 私はここ数年、毎年のように奈良から明日香の方面に旅をすることにしています。奈良または近郊に宿を取り気ままに車を走らせることにしていますが、それでも一応は立ち寄る先の目標は作ることにして出かけます。
 奈良近郊には、日本の古代史に登場する多くの遺跡・旧跡があり、予定がそのまま次回の目的に変わることも多く、これも楽しみの一つとも言えるかも知れません。明日香に行った時の事ですが、有名な「飛鳥寺」に立ち寄り、この近くに「日本書紀」に登場する天武天皇に関する記述の中で、「天武天皇4年春正月(むつき)の庚戌(かのえいぬ)日に始めて占星台を興(たつ)」、と記載されていることを思い出していました。その後何年かが経過したとき、この事実を確認するような記述を新聞紙上で見ることになったのでした。占いを星に求めることは、先史時代の中国の記録(といっても文字が未発達の時代なので伝承?)に見ることができるそうで、時代が下って漢の時代には天文博士を宮中に置き、天文現象の確認を行わせていることは司馬遷の書き残した「史記」などに見ることができます。この流れの上に乗って、日本でも占星術とでもいえるような初期の天文観察が行われ始めてきたことを教えるものでした。この占星台は司天台ともいわれ、四季を知る手立てとして考えられていました。ある高さに作られた四方形の台の上で、天文博士が夕刻に南に見える星、ここでは星宿を観測し、その指示によって季節を定めたと言われています。そのときに使ったのが、当時中国で考えられ使用されていた二十八宿で、いわゆる星宿。この星宿が現在まで残されているのが明日香地方で発見された古墳の中の星宿に他なりません。
 中国には、天体の位置を測る道具として、渾天儀と言う機械が発明され、土で作られた高台に設置され使用されて来ました。この機械(道具)は、天の赤道と、これに交わる天の黄道を表す円環で作られていて、いずれの円環にも全周に目盛りが刻まれていました。ところが、この目盛りが私達がよく知っている度数と異なるのです。円を表わすとき、全周は360度であるといいます。ところが古代の中国では365度と4分の1の目盛りが円環の全周に刻まれていたのです。何故でしょう。天文博士が、占星台(司天台)の上で、夕刻に南の空に見える星座を基準に季節を知ったと書きましたが、肉眼による観測によって太陽は365日と4分の1日で全天を一巡りすることを認識していたのです。
関連する小惑星(4077):Asuka(飛鳥)、(5018):Tenmu(天武天皇)、(5082):Nihonsyoki(日本書紀)、(5454):Kojiki(古事記)。


日本の望遠鏡(U)

 「肉眼に勝る光学系は無い」、というのが私の長年の思いです。皆さんも大変よくご存知の、彗星捜索者でありまた新星の発見者として名高い方に本田 実氏があります。鳥取県八頭郡八東町の出身で、岡山県倉敷市の民間の施設・倉敷天文台で長年にわたり観測研究に従事された方です。生前のこと。軍隊に応召して満州(現・中国東北部)に駐留していたとき肉眼で「すばる:プレアデス」に十三個の星を数えたことがあると話されていました。私は、この事実を確認させていただこうと悪巧みをして、ある日頼まれていた講演の席で目に前に座って下さっている本田氏に「プレアデス」の写真をお見せして、この中で実際にご覧になった星を指示してくださるようにお願いしたのです。暫く、考えられていた本田氏はやおら立ち上がられて、写真の星を一つずつ指差しながら確認されたのでした。暗視野順応という言葉があります。夜、明るい室内から急に暗い屋外に出たとき、目の前が真っ暗で暫くの間は何も見えないような状態が続きますが、暫くすると辺りが見えてきますね。これを暗視野順応と言って、明るいところでは小さかった瞳が、暗いところでは光を多く取り入れようと大きく広がって行く現象なのです。星を見ようとするとき、目を暗さに慣らしましょうと、教えられますね。全く同じことなのです。さて、このように暗い場所での視力を、暗視力とでも名付けましょか。この視力が、先月に書きましたようにアフリカの人たちや、本田氏のように夜間天体観測に励んでいる人たちはとても勝っているのでしょう。一種の、暗視野望遠鏡とでもいえるような視力の持ち主なのです。
関連する小惑星(3904):Honda(本田 実)



2009年9月の星空

(ここをクリックすると大きな画像になります)
2009年9月の星空です。
今年は世界天文年2009です。
夜空の方は、秋の星たちが見られるようになって来ました。
木星がちょうど見ごろとなっています。


次回も、お楽しみに

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