天文セミナー 第146回

『日本の天文の歴史(T)』『日本の望遠鏡(T)』



日本の天文の歴史(T)

 滋賀県大津市には、天智天皇を祭る「近江神宮」があります。京都の東北、比叡山の東の麓で境内から琵琶湖を望むことができる場所です。赤い朱塗りの大きな鳥居を入ると、そこには幾つかの水時計が飾られ、水の流れから時を知ることができるように工夫されています。そのほかにも、幾つかの時計メーカーが寄進した時計が時を刻み、毎年6月10日の時の記念日には、厳かに天智天皇の業績をたたえる行事が行われています。この行事は、「日本書紀」の天智天皇10年の記述の中に「夏4月の丁卯(ひのとう)の朔辛卯(かのとう)の日に、漏刻を新しき台(うてな)に置く。始めて候時(とき)を打つ。鐘鼓を動(とどろかす)。始めて漏刻を用いる。この漏刻は、天皇の、皇太子に為(まします)時に、始めて親(みずから)製造(つく)れるところなりと、云々。」以上のように記述されていることを記念して、作られ、行われている行事なのです。天智天皇10年と言えば、西暦671年に当り、1450年近く昔のことになりますね。この日を記念して決められたのが、先にも書きました「時の記念日」なのです。
 日本など東洋の国々では、よく知られているように農業を主体とした生活が行われてきました。いわゆる、農耕民族と言われる民族の集団で、農業にもっとも重要なのは、季節を知ることです。季節を予め知ることができれば、種まきや収穫の時期を的確に予測することができます。こういったことを重要視することから、「観象授時」、つまり天象を見て時刻や季節を知り多くの人々に知らせると言うことが重視されてきたのです。天智天皇の、漏刻の製造の考えの発端は、農業の発達、農民の支えになるのが季節や時刻の決定と、その知らせだったのではないでしょうか。  小惑星(5017):Tenchi(天智天皇)
 今月から、日本の天文の歴史と題して、幾つかのお話を続けて行きたいと思っています。


日本の望遠鏡(T)

 日本の望遠鏡は、いつ頃から、誰が製造し、使用してきたのでしょうか。天文学に限らず、多くの人々に愛用されている望遠鏡。遠くを見るには「望遠鏡」という、身近な言葉の源を考えてみたいと思います。この物語も、天文の歴史と同様、何回かのシリーズで進め様と思います。
 先ず、もっとも手近な望遠鏡、ここで光学系として知られているのは、両親から貰ったか、神様から貰ったか、いずれにしても私達に生まれながらに備わっている「目」でしょう。この目の能力を妨げないでアップする器具を「光学系」と呼ぶことにしましょう。
 現代人は、古代人に比べ、視力が低いとよく言われていますね。今から10年程前、私はアフリカへ旅をしました。日食の観測が主な目的で、最初は観測地の選定のため、二度目は実際の観測のためでした。はじめてのアフリカ。多くの期待に胸を弾ませて、南アフリカの大都市・ヨハネスブルグの空港に到着しました。話には聞いていましたが、赤茶けた大地と疎らな木立が先ず目に飛び込んできます。ヨハネスブルグからローカル線の飛行機にに乗り換えて、観測地の候補に近い場所へ移動します。昼間の太陽は強く照りつけ皮膚を焦がしますが、夜間の大気はヒンヤリと心地よく感じます。日食観測の適地を探すのが目的なのですが、そこは職業柄夜空が気になります。ホテルから一歩外へ出ると、疎らな街灯に照らされる路面の上には満天の星空が広がります。息を呑むような美しさに暫く時の経過を忘れていました。不意に、現地語で「こんばんは」。驚いて周囲を見回しましたが人らしい姿は見つかりません。不気味になってホテルへと一目散のはずでしたが、よく見ると人が立ってこちらを見ていました。私には、それほどははっきりと見ることはできないほどの明るさしかない場所で、現地の人は私をしっかりと見ていたのでした。
 暗い場所での目の能力を暗視力をでも言うのでしょうか。文明化が進むと、人間に本来備わっている能力が衰えるといわれますが、その衰えを体験した一時でした。
 最もシンプルな光学系、つまり肉眼の持つ素晴らしい能力について次回もお話したいと思います。



2009年8月の星空

(ここをクリックすると大きな画像になります)
2009年8月の星空です。
今年は世界天文年2009です。
夜空の方は、夏の星たちで一杯です。
南東の空には、木星が明るく輝いています。


次回も、お楽しみに

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