鳥取市

天文セミナー第221回(2015年11月)「名付け親の楽しみ。」第5回 近代天文学と地域登録日:

天文セミナー 第221回 『名付け親の楽しみ。』

第5回 近代天文学と地域

No.07

(3249)?? Musashino=武蔵野=1977DT4     発見日:1977 Feb.18

命名の由来:武蔵野は、東京の西部に広がる台地一帯の地名で、東京天文台(現;国立天文台)の主要設備も、この地域に含まれます。国木田独歩の小説”武蔵野”や大岡昇平の小説”武蔵野夫人”の舞台として登場。国立天文台の所在地・三鷹市に隣接し同名の武蔵野市があります。

 日本画家が好んで描く題材に、この武蔵野があり、ススキ原に住まう小鳥と月。風情のある画題、さらに文人は武蔵野での明月を愛でます。三鷹市の北には田無と言う町がありました(現在は西東京市)。この町の町名などは、全く田んぼが無かったことに由来するそうで、一面のススキが原だったそうです。この当時の面影を残す数少ない場所の一つが東京天文台の構内。私が勤務し始めた頃には、まだ狐狸が住むと言われていたほどで、実際に野ウサギが構内を跳ね回り、武蔵野名物の尾長鳥が木々の間を飛び交っていました。

 天文台の南側はハケと称される10m程の崖。この崖は遠く立川市付近から東京世田谷区等々力まで続きます。この崖には、横穴式の住居跡が残され、天文台構内に新しい施設を作る際などには必ず発掘調査が行われ、多数の出土品がありました。この崖から南4km程の場所を西から東に流れるのが多摩川。武蔵野を流れる唯一の川でした。この川から、個人の力で江戸市中に水を引いたのが玉川兄弟でした。江戸幕府がなしえなかった快挙とも言うべき事業で、その水が江戸市民の生活を支えたのでした。この玉川上水が天文台の北数kmを流れ、その流れに身を投じて自殺したのが太宰治。太宰治と、明治の文豪でまた陸軍軍医総監だった森林太郎(鴎外)の墓も三鷹の寺にあり、さらに若い日の瀬戸内寂聴も文壇に登場するまでの住まいも三鷹にありました。

 何と言っても、忘れられないのが現在・国際基督教大学が立つ場所でしょう。嘗ての世界大戦で活躍したいわゆる零戦(ゼロ戦)を、三菱航空機と共に製作していたのが中島航空機。広大な敷地があり、飛行機の離着陸のために工場の構内には滑走路がありました。私が東京天文台に勤務し始めた頃には、この滑走路や飛行機を遮蔽する奄退壕が各所にありました。この中島航空機三鷹工場の跡地の約半分に出来たのが国際基督教大学。残る半分には中島航空機の流れを汲み、スバル自動車でお馴染みの富士重工三鷹製作所が開かれたのでした。

 何と言っても武蔵野は関東平野のただ中です。目を遮る物は関東平野を区切る標高約1000mほどの山並み。西は山梨県境の甲武信の山々、北西には秩父山塊がありそこの堂平山には東京天文台の堂平観測所が有ります。よく晴れた冬の日などには、ドームの上から堂平山が望見出来たのです。そして、北には日光の山々、一際高い男体山、さらに北東には関東平野を跨いで茨城県の筑波山。これらの山々には、陸軍の陸地測量部が設置した測量の基準点・一等三角点が残るのです。

 古武士が出陣の場合、いざ鎌倉!と言ったそうですが、今の群馬県や埼玉県西部から鎌倉に通じる道が鎌倉街道。三鷹のすぐ西・府中市で多摩川を渡ります。此所で行われたのが鎌倉源氏と新田源氏の分倍河原の戦い。鎌倉源氏の最後の戦いで、この戦が切っ掛けで源氏は北条に勢力を奪われたのです。何しろ、広漠とした広野。見渡す限りの広がりです。この平野も近代化の波によって姿を変えていきます。往古の念を禁じ得ません。

2015年11月の星空

(ここをクリックすると大きな画像になります)

2015年11月の星空です

 11月になり、一気に寒くなってきました。星空の方は、夏~秋~冬と3つの季節の星空を楽しめる、とてもいい時期です。西の空には、夏の大三角。ベガ、アルタイル、デネブの3つの1等星が目印です。秋の四辺形はちょうど頭の真上です。秋の星空は明るい星が少なくてさびしいので、夏の大三角からたどってみましょう。東の空にはオリオン座が顔を出し、夜遅くには冬の大三角も見えてきます。

次回も、お楽しみに

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