鳥取市

01 国府町大茅・成器名所旧跡一覧更新日:

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大茅地区
雨滝・木原・下木原・菅野・大石・石井谷・栃本・楠城・拾石からなる地域です。
山陰海岸ジオパークのジオスポット「雨滝」をはじめとする自然豊かな地域です。
掲載資料 大茅地区公民館(公民館発行「おおかや地区公民館だより」より一部を変更して掲載)

 

成器地区
神護・上上地・下上地・上荒舟・荒舟・山崎・中河原・松尾・吉野・新井からなる地域です。
平成のピラミッドとして有名な「殿ダム」があり、ダム直下の広場ではイベント
やスポーツなどが行われています。
掲載資料 まちづくりいきいき成器の会・成器地区公民館(まちづくりいきいき成器の会発行「成器良いとこマップ第二版」を原文のまま掲載)

 

 

大茅地区

大石の巨石

 大石神社の背後にあり、高さ2.5m、周囲26mの巨石。自然崇拝の盛んだった大昔には、巨大な石や泉の源流などを神聖視したことから、大字名を「大石」とすることになったと言われています。巨石は町内二番目の大石です。
 神社は杉の木立に囲まれ、中に幹周り4.3mのイチョウが本殿と籠もり所を覆っています。


石井谷の堂

 いつの頃からかは定かでないですが、昔は各集落に「お堂」がありました。盆休の夜、周辺の各村から若い男女が着飾って集まり、隣村から山越えして来た青年が浴衣姿で娘を囲む。観音像を祭る堂の周りで、若い男女の体臭、娘たちの脂粉の香り、結婚相手を捜し求める目が加わり、燈篭の下に異様なム-ドをかもし出す・・・。
 村中の関心が集まる、「堂」はかつてそんな所でした。現在は茅葺きからトタンに葺き替えられていますが、柱は以前の栗材のまま。村の中央に位置し、現在でも利用されている「石井谷の堂」です。


楠城・道標地蔵(みちしるべ じぞう)

 江戸時代後期には「法美往来」と呼ばれ、明治になってから「雨滝街道」と呼ばれる現在の県道鳥取国府岩美線には、市内から雨滝まで、通行人の道路標識として多くの「道標地蔵」が残っており、その一つが楠城にあります。「右 なわ志ろみち」「左 たちまみち」と左右に刻まれています。右に行くと楠城集落へ、左へ行くと十王峠経由で兵庫県へ。県道変更の毎に場所移転してきました。

十王峠の石地蔵

 県道「鳥取国府岩美線」が開通した明治24年までは、雨滝から荒井、銀山まで、狭い曲がりくねった峠道が唯一の交通手段であり、途中の道端に、石地蔵が行き交う人々を見守っていたという。県道「十王峠」開通後、旧道に淋しく残されていた「石地蔵」を村の若者達が現在地に移動したものです。
 場所は雨滝集落から2km先の県道端。座像の石地蔵で、現在は小さい祠の中に鎮座しており、当時の若者が傍に植えた2本の黒松は1本になっていますが、樹齢は110年を越えます。

大茅グラウンドのイチョウ

 グラウンドに2本のイチョウがありますが、東の端で年々育っているイチョウ。誰が何時植えたのか定かでないが、隣の松と同じ背丈で立っています。根元の幹周りは約1.5m、高さは13~14m位でしょうか?でも、小粒ながら「ギンナン」が採れますよ。実は地区の皆のものです。

雨滝番所・役人住居跡

 江戸時代には、入鉄砲出女や挙動不審の通行人を取り締まる意味で、関所を作っていましたが、各藩でも、こうした通行人を取り調べる所を領内の要所に設けたのが「番所」です。1863年徳川第14代将軍家茂の時に、法美郡の雨滝と十王峠を越した岩井経由但馬を結ぶ重要な要所として十王峠の麓、雨滝集落のはずれに建てられていました。
 しかし、世が平穏となったことから、建てられてから僅か7年目の明治2年には制度が廃止されたようです。当時の番所役人住居の跡地が、立派な石垣のまま今でも雨滝集落内に残っています。

酒賀神社の名木

 神社の鳥居前に自生する大杉。高さ30m、幹周り6m弱か。樹齢500年と言われており、「鳥取県の名木100選」の一本です。酒賀神社は、貞観三年(861)「因幡国正六位上酒賀神授従五位下」と「三代実録」に記されている国史現在社ですが、創立年代は不詳です。現在の社殿は188年前の焼失に伴い再建されたものであり、このことから、この大杉の生い立ちに古の歴史を感じます。

旧大茅小学校の庭に立つ 創立百周年の記念碑

 昭和48年に建てられた記念碑。明治6年に創立されて以来、100年を迎えた記念に故野津英顕医学博士の思いで建てられ現在に至っています。
 平成14年の閉校まで128年の創立でした。この間、3,035名の卒業生を数えており、昭和22年の学制改革以降で見ると、在校生が最も多かったのは昭和33年が215名、最も少なかったのが閉校の前年で13名と記録されています。
記念碑には

『この水は鳥取をとおり世界にひろがっている』

と記載されています。

大茅スポ-ツ広場の桜

 以前から「てんぐす病」が見られた為、平成25年に一部の枝を伐採しました。その影響のせいか26年からの桜は見事!!昭和36年、現在のグラウンドを整備した際に植えられたと思われますが定かではありません。
 大茅地区の花見会場には絶好の場所です。

石井谷の滝

 集落のはずれにある大きな堰堤から歩いて1時間、以前はあったらしい山道も今は殆ど残ってなくて、本当に道なき道。幾度か川を横切り、ようやく到着。立派な滝です。高さは25m程度か、水量も多く、横から見ると綺麗、正面から見ると豪快に感ずる。正面からは「しぶき」で写しにくい為に少し山を登ると大きな「トチ」が3~4本。滝の右側に高さ30~40mの岩肌は雨滝のミニ版の如く。

下木原 「茅ん堂」

 本尊さんは地蔵さんですが、あまりにも古くから祭られているので、その時代や縁起を知る人はいません。昔から耳の病気にご利益があるとのことで、因幡一円はもとより、遠く但馬からも参拝者が多かったと伝えられています。小さいお堂には、大小無数の穴あきの石が祭られており、ご利益の程を知ることができます。人の為には我が身も捨てる慈悲深いお地蔵さんでもあると伝えられています。(鳥取市指定有形民俗文化財)

石井谷の大イチョウと祠

 栃本と石井谷の中間地点に、大イチョウの木があります。樹齢は分かりませんが相当の年数が経っていると思われ、幹回りは約3.5m程度か。今の県道を建設時に切られずに残ったものでしょう。毎年たくさんの実がつき、県道にも落ちてくるようです。
 このイチョウの木のすぐ後ろに、これまた古い石で造られた小さな「祠」がたたずんでいます。この土地の所有者の先祖は約350年前らしく、その当時に何かの「いわれ」で所有者が建てた物と推測されます。古い昔の道がこの辺りを通っていたらしく、通行人の安全を祈願していたのかも知れません。

栃本農村公園

 栃本地区の基盤整備事業の一環として、平成12年3月に竣工した農村公園です。公園面積は2,300平方メートル、公園内に24時間使用可能のトイレやブランコなどの遊具が設置してあります。大茅地区の災害時避難場所にもなっており普段は軽い運動場所としても利用されています。

全国学校給食優良校 受賞記念碑

 旧大茅小学校の玄関前広場に建っています。47年前に学校給食関連で全国表彰を受けた際に記念として建てられました。表面の短歌は判読出来ませんが(いずれ確認する予定)裏面を紹介します。

「我が校は父母教師児童とも一体となって校運の隆昌を期しているが 昭和四十二年十月十八日には全国学校給食優良校として文部大臣より表彰を受けるにいたったこの光栄を記念してここに本校同窓生文学博士山本嘉将先生が祝意をこめて作られた短歌をとどめる」

昭和四十二年十二月四日 大茅小学校育友会

大石 胞衣(えな)荒神碑

 大石集落の入り口に近い小高い丘に、イチョウと杉の木に囲まれて建っています。酒賀神社の主祭神「大己貴命神」(後の大国主命)と「八上姫神」の第一皇子が大石神社の主祭神「御井神」であり、御井神出産時の「胞衣」をこの場所に祀り村の安産祈願としたものです。何故か旧暦十月十九日が祭礼日となっています。子供の神様として知る人ぞ知る荒神さんであり、遠い所からでもお参りに来る人も多い。※胞衣とは、出産時の胎盤の意。胞衣信仰は縄文時代から続く信仰です。

菅野ミズゴケ湿原

 菅野の酒賀神社前に広がっている湿原です。扇ノ山山麓の標高400mの溶岩台地上にあり、もともと沼地であったようで、水田に利用出来なかった約9,000平方メートルにミズゴケが群生しています。ミズゴケの多くは「オオミズゴケ」で、その名が示すとおり大形のミズゴケであり、水分吸収の構造が葉にも茎にもあるのが特徴です。
 この湿原には、オオミズゴケ以外にカキツバタ・サワギキョウ等の群落が見られ、湿原中の小高い部分には、湿原植物ではないネムノキ・ナナカマド等の低木が自生し、湿原植物と非湿原植物が混生する特異な植生が見られる湿原であり、昭和42年12月に県指定の天然記念物となりました。6月上旬のカキツバタ、9月上旬にサワギキョウが花をつけ、観光客を楽しませてくれます。

栃本ブル-ベリ-団地

 面積は約1,000平方メートル程度で小規模ですが、標高220mの高地で栃本集落の有志がブル-ベリ-栽培に取り組んでいます。積雪が多く日当たり時間が少ない場所の為、枝折れ・腐れ等で樹木が消滅する事も多々あるようですが都度補植を繰り返しており、現在でも当初の植栽120本を維持し続けています。当初から無農薬での栽培ですが、施肥作業、夏場の灌水作業、防虫ネット張り作業などなど、部員の減少も見られる中、平成27年現在7名の部員が汗を流して頑張っています。生食用、ジャム用で地元の直売所を中心に販売しており、平成26年には過去最高の約100kgが収穫出来たとの事。
(平成27年2月17日撮影、積雪60cmの中、じっと春を待つ)

雪で埋まった栃本廃寺跡

 二つの塔心礎が残る貴重な寺跡として、5年間の発掘調査を経て平成16年2月に国の史跡に指定されました。寺は七世紀末から八世紀中頃に建てられ、十世紀初め頃まで存続していたものと考えられています。本尊を祭る金堂跡、法要を執り行う講堂跡、東塔跡、南塔跡など、寺域は東西90m・南北は東端で55m・西端は95mと考えられています。現在はこの跡地に東屋がポツンと建っており、この雪の中ではこれら廃寺跡は確認出来ない状況です。

大石 若宮様

 文字通り若い宮様。大石集落中央の遊園地傍に鎮座しています。夥(おびただ)しい石柱、五輪塔がここに集中している事から、大石神社の主祭神「御井神」の子孫を祀り、大石のご先祖神として奉祀したと考えられています。因みに、酒賀神社長尾家の若宮様は神社の西50mの処に鎮座し、霊璽(れいじ:仏教で言う位牌)を祖霊社より遷座して、尊き神様として春・夏・秋・正月に祭典執行。若宮様は全国にも数多く存在しています。             

歳の神(さえのかみ)

 歳の神は、行路を守る道祖神のことで大石集落の下手で江戸時代の道が通っていたと言われている道の傍にひっそりと残っています。古い昔は、「わらじ」・「はんなか」などを祀って旅の安全を祈願していたようで、石積みの小さな祠に祀る神としてどこの村にも村はずれにあったと伝えられていますが、現存する物は少ないようです。松尾芭蕉の「奥の細道」では、旅に誘う神として歳の神が登場しています。

拾石 絆の碑

 大茅地区で栄えていた拾石集落18戸の方々が、殿ダム建設着工の際、町内・市内へやむなく移転した証として、当時拾石集落のあった場所の高台に、平成20年に建立されたもので、「絆の碑」と刻まれております。集落の全戸移転により拾石集落の四百数十年の歴史に幕が下ろされました。昭和37年に始まった県の調査予備調印から、平成9年のダム着工まで36年の間、ダム移転当事者、関係者方々のたどった絆を、この碑に託しています。

木原に残る古道

 「藩制時代の道は幅員3~4尺で、道は田畑を損なわないことを第一とし、地形に従って通じていた。坂や峠は問題にせず、難所を避け、架橋を嫌い、大きく迂回曲折し距離の長短便利などは問題にしなかった。」というふうに書物には記されておりますが、現に大茅にも当時の古道の一部がはっきりと残っている場所があります。木原集落の村はずれに約60mの部分。明治以降少し幅員を広げている部分もありますが、古道の傍に村の人の言う「荒神さん」も祀ってあり、その古道に立つと、昔の時代を思わず想像させられる雰囲気をかもし出しています。

雨滝 桂の巨木

 日本の滝百選「雨滝」のすぐ手前にあります。伝説によると幹の周りが5丈(約17m)、高さが17間(約30m)、樹齢は900年程度の巨木で、日本の名木320本に数えられていたと伝えられています。いつの頃か不明ですが、落雷により樹が倒れ、今は幹が枯れて根元から生えた新しい芽が大木となっています。

石井谷の三社燈

 建立のはっきりした由来は分かりませんが、古くから集落の「お堂」の隅に建っています。いずれも集落から離れた場所に存在している石井谷の荒神さん・石井谷の若宮さん・岩井谷神社の三社を一か所に祀ったものと考えられており、誰が建てたのか不明です。高さは2m30cm程自然石の燈籠ですが、粗末に建てられているように見えても、昭和18年の鳥取大地震にもビクともせず今に至っています。安政六年(1859年)九月と刻まれています。

木原の宝篋印塔(ほうきょういんとう)

 もともとはインドの発祥らしく、中国を経由して日本に伝わったもので、本来は「宝篋印陀羅尼」という呪文を収めた塔。後には供養塔、墓碑塔として建てられたもので、日本には鎌倉時代以降に建てられたものが各地に残っていますが、その内の一つが木原集落の入り口にあります。以前は、集落の奥にあったものを最近になって現在の場所に移転されたものです。いずれにしても、この塔が建てられた所以・時代は謎のままですが、何か興味をそそられる石塔です。

楠城五輪塔・一里塚

 楠城集落が運営しているバ-ベキュ-ハウスの裏の小高い場所に数多くの五輪塔が整然とまとまって祀られています。以前から楠城集落の物ではなく個人の物のようですが、ダム建設に関わっての村道付け替えよりずっと以前にはここら近辺に散在していた物らしく、ダム関連事業実施の後に個人の方が現在の位置に纏めて移転したもののようです。明治22年、最初の雨滝街道が開通した当時、鳥取から雨滝までの間に一里塚が設置されており、その一つが楠城ふれあい広場の一角にあったと言い伝れていますが、今では所在が判りません。もしかして、五輪塔群の中に紛れ込んでいるかも知れませんね。

旧大茅小学校(おおかや交流館)

 平成14年3月末の閉校になるまで128年の間、地域の小学校として3,035名の卒業生を送り出してきた旧大茅小学校を、閉校後は別の形で地域に残したいという事から、大茅地区振興協議会が中心となって旧校舎の再利用方策を検討し、内部の改装等を経て平成21年に「都市交流施設・おおかや交流館」と命名して今日に至っています。
 研修ル-ム、談話室、ふれあいホ-ルを備え、各室に冷暖房を完備しており、以来、地区内外の方々が会合等に利用されている他、地区公民館事業にも多く利用されています。

楠城・常夜燈

 楠城の現公民館前、高さは台座を含めて2.6m。直径1.5mの分厚い傘の下の火袋は、一辺60cmの大きさがあり、道路を挟んでどっしりと建っています。いつ頃建てられたものか?ずっと前から建っていたらしいが、誰が建立したのか?「常夜燈」と彫ってあるのみの立派な石燈籠です。少し前までは時々「あかり」が灯っていたと聞きます。

大茅地区農産物加工施設「大茅の里」

 周囲を山と緑の自然環境に囲まれ、豊富な農産物のある大茅地区ではあるが、農産物に付加価値を付けて有利販売する手段が無かった事を機に、地区の強い要望もあり、下木原工区ほ場整備委員会からの土地提供をいただき、国府町が主体となって「山村振興等農林漁業特別対策事業」の平成10~11年度事業として建設し、平成12年5月に竣工した農産物加工施設です。鉄骨平屋建瓦葺、総事業費78,000千円、延床面積254平方メートルの施設で、加工室・加工設備も整っています。             

扇ノ山噴火口と伝えられている穴

 標高1,100m地点、扇ノ山の中腹で河合谷高原の最高地点あたりに、「扇ノ山が噴火した際の噴火口の跡」と伝えられている大きな穴が存在します。
 穴は直径35m程度、深さは13m~15m程のすり鉢状で底には若干の水を湛えています。周りをブナの木々に囲まれた清閑な場所で、50万年前とも100万年前とも言われている扇ノ山噴火時期から今日まで静かにたたずんでいます。
 少し下がった標高1,000m地点で河合谷林道沿いにも直径15m程度、深さは13m程のやや小さい穴があり、こちらも噴火口と伝えられています。

楠城 谷尾滝

 楠城集落の上手を走っている農道の終点から、木立をかき分け約300m進んだ所に流れ落ちている高さ20m程度の二段に見える滝です。
 周囲は、50万年以上前に噴火した扇ノ山の溶岩が冷えた際に出来た黒く見える安山岩の柱状節理で囲まれ、さながら屏風の如くで、うっそうとした木々に覆われています。
 菅野が源流のせいか水量が少なく、夏場には流れが寂しいかぎりですが、かつては信者の修行の場であったとも言われており、水量が少ない為に、修行の場を雨滝に変えたとも言われています。

拾石のお不動さん

 楠城集落入り口から、曲がりくねった殿ダム左岸道路を1.9km下った道路わきに、五輪塔と並んで整然と鎮座しているお不動さんがあり、自然石には「十石村中」「昭和二年十月」「世話人 婦人會」と彫ってあります。当時の拾石の婦人会さんが、何らかの言われから祀ったものでしょう。30cmの台座を含めて高さは1.3m。五輪塔の高さは1.5mとかなり立派なお不動さんです。
 拾石の事を十石と言うあたりから、かなり昔の訳あり不動さんのようですが、言い伝えは判りません。ダムが出来る以前には、現在地より低い位置の水が流れる岩肌に鎮座していたようですが、ダム建設に伴い、埋没してしまわないように現在地に移動したようです。

大茅小学校ゲレンデ

 山に四方を囲まれ、近くにスキ-の出来る場所の無い大茅で、なんとかして子供達にスキ-をやらせたい、と先生・父兄で考えた末に考え出したのが、グラウンドに隣接する段々畑の利用。段々にモウソウ竹を敷き、上にムシロ、コモで覆った「竹・段々畑折衷スキ-場」が昭和44年1月完成しておりました。
 その後ひと冬ごとにスロ-プを作るPTA・子供達の努力に胸を強く打たれた国府町の教育委員が昭和46年秋に工事着工し、長さ70m、幅15m、平均斜度12度のゲレンデが父兄の労力奉仕もあってその年の冬前に完成したところです。
 いつもの冬であれば12月からは1m以上の雪があるのに、その年は暖冬でゼロ。スキ-場開きは3月2日だったようです。

栃本神社の石燈

 大石川の右岸、古代栃本古墳群の遺跡が残る小高い丘のふもとに栃本神社は1682年建立されたとされています。古くは天満宮と言っており、明治元年六月栃本社、明治七年三月から栃本神社と改称され現在に至っています。祭神は学問の神とされている菅原道真。
 神社に通じる道を照らす石燈籠として、当時の風景が浮かぶような情景を今でも残しております。特別に大きくはない燈籠ですが、「火袋」の部分は「ケヤキ材」だったそうで、とても珍しい燈籠だったと言い伝えられています。ケヤキも朽ちてしまい、平成20年に石の火袋に変えられて今に至っています。

夫婦杉の切り株(木原)

 木原神社は古くより「熊野三社権現」と呼ばれていましたが、明治元年に木原社と改名され、その後明治7年からは木原神社として今日に至る由緒ある神社です。この神社の拝殿前に「夫婦杉」と呼ばれる樹齢は数百年に達する国府町内きっての杉の大木が2本並んで生えていましたが、昭和34年の伊勢湾台風で木の上部が折れ、更に平成16年の台風18号によりその内の1本が途中から折れてしまい、その後、根元から1m程を残して綺麗に伐採してあります。この切り株がすごい!!!地表に見える大きな根は直径5m~6mはあろうか?切り株だけでも3m以上はありそうです。残っているもう1本を大事に育てたいものです。

首里城石垣のミニ版?

 栃本集落内の細い道を歩いていると、突然、目の前に立派な石垣が見えて来ます。高さ、長さ、石の大きさなど一部を見ると、一見して沖縄の首里城石垣のミニ版の様相!!
 今は畑地で草に覆われていますが、果たして以前は誰の居宅だったのか? とてつもない資産家だったのか?これまでの地震にも崩れは無かったように見えます。

昔の石井谷集落入り口

 大昔の石井谷集落入り口は、現在の市道入り口より約50m東側にあり、道幅半間の曲がりくねった細い砂利道でした。現在でもお地蔵さんが村の入り口で見守っています。
 昭和36年5月に県道37号線から分岐して石井谷に向かう橋が完成して以降は、現在の村に通ずる道に沿って3m幅の町道となりました。その後、平成8年、平成14年の道路付け替え、かさ上げ等で現在に至っています。
 大昔の村中道は、村の高い所から低い所へ繋がっており、今ある村の公民館辺りが村の一番奥まった場所だったようです。

雨滝観音堂

 同じ境内に神社と観音堂が存在しているのは、大変珍しいと言われていますが、雨滝神社本殿の石段を下った広場の隅にひっそりと建っています。
 現在の観音堂は寛政六年七月建立(1794年)されたもので、因幡西国巡礼三十三番の内十一番の札所です。以前の観音堂は延宝年間(1672~1680)にお滝の手前の坂を下った平地に建っていたと伝えられています。

イチョウの大木(大石)

 この大木は、国府町で一番ではないだろうか?
 大石集落の公民館裏の畑の隅っこに、とてつもない大木のイチョウが永年の風雪に耐えて立っています。村中の道を普通に歩いていても気が付き難い場所ですが、誰かが「五輪さん」として祀っており、樹齢200年以上と言われている歴史の重みを感じます。
 測ってみると、幹の周りが5m強、高さは目測で35m程度か?広がっている太い枝には銀杏の実が“たわわ”に付いており、さながら「デッカイ生け花」の様です。
 このイチョウの葉の色づきは他の木より遅く、「この木が色づいたら、この村にも雪が降って来るサインですよ・・」と村人の弁です。(平成29年11月10日撮影)

 

成器地区

見えにくい場合は、拡大してご覧ください。

成器良いとこマップPart1

成器良いとこマップPart2

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国府町総合支所 地域振興課
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FAX番号:0857-27-3064

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