鳥取市

「五しの里さじ」 ~佐治地域の5つの魅力~登録日:

「五し」とは

 佐治地域の宝である「梨(なし)」「和紙(わし)」「話(はなし)」「石(いし)」「星(ほし)」のことを五つの"し"⇒「五し」と呼び、魅力ある地域資源としてPRしています。

 

 

梨(なし)

佐治地域における梨栽培のはじまり

 佐治における梨栽培は、明治44年(1911年)、佐治村高山(現佐治町高山)で中谷誠治氏が約50アールの果樹園を開園したのが始まりとされています。植栽した品種は「長十郎」「早生赤」「独逸」「名月」、そして「二十世紀」でした。その後、少しずつ梨園を始める仲間が増え、昭和12年(1937年)に佐治果実組合が発足しました。
 この頃には6軒の農家が梨を栽培しており、栽培品種の主体は「八雲」「二十世紀」でした。また、昭和10年ごろから養蚕業が衰退を見せつつあったことから、これに代わる作物として梨を選ぶ人が出てくるようになり、昭和13年(1938年)には新たに16軒の農家が梨栽培を始めています。

太平洋戦争の苦難

 昭和16年(1941年)に始まった太平洋戦争によって梨作りは苦境に立たされます。生産資材や肥料、農薬が統制されたほか、主食増産政策によって梨は余剰作物扱いされ、梨の木が伐採されたり、梨の木の枝を支える鉄線を資源として回収されたりしました。

戦後の梨栽培

 戦後、鳥取県は二十世紀梨の積極的増産策を採用しました。その結果、昭和45年ごろの佐治地域における梨の栽培面積は、昭和10年ごろと比べて約50倍になりました(県全体では約5倍)。

 佐治地域は東西に流れる佐治川を中心に山に挟まれている細長い山村で、佐治谷とも呼ばれています。佐治谷は平地が少なく、山林原野がほとんどを占め、耕地に適した土地は全体の約5%しかありません。ところが、梨は傾斜地が栽培の適地でしたので、佐治地域で梨の栽培が盛んになり、栽培面積がどんどん増えていきました。こうして、当初は高山地区が中心だった梨栽培は佐治地域全体に広がり、昭和58年(1983年)には栽培面積が189ヘクタールにまで増え、県内有数の梨の産地となったのです。現在も二十世紀梨をはじめ、さまざまな品種を栽培しています。

二十世紀梨の生産量は鳥取県が日本一

 二十世紀梨の生産量は鳥取県が全国一です。二十世紀梨には黒斑病にかかりやすいという欠点があり、この欠点のため誰でも栽培できるわけではありませんでした。事実、黒斑病防除の困難を克服できなかった産地は他の品種に植え替えました。これに対して、鳥取県の生産者は粘り強くその防除に取り組み、見事克服して現在の二十世紀梨王国を築いたのです。

梨
二十世紀梨

 

鳥取県内で栽培されている主な品種

品種 出荷時期 特徴
ハウス二十世紀梨 8月上旬~中旬 二十世紀梨を8月に出荷するためにハウス栽培したもの。青梨。
夏さやか★ 8月上旬 8月上旬のおよそ10日間しか流通せず、しかも栽培量が少ない超レア青梨。県外に出ることはほぼありません。
幸水(こうすい) 8月中旬 赤梨の代表格。二十世紀梨の孫品種。糖度が高く、酸味は弱く、肉質が良いのが特徴。全国一の栽培面積と生産量を誇る。
なつひめ★ 8月下旬~9月上旬 お盆に二十世紀梨のようなシャキシャキジューシーを楽しみたいという要望に応えて鳥取県園芸試験場が育成した新品種。青梨。
新甘泉(しんかんせん)★ 8月下旬~9月上旬 鳥取県園芸試験場が育成した赤梨の新品種。鳥取県産の梨としては二十世紀梨に次ぐ人気を誇る。糖度が高くてとても甘く、酸味はほとんど感じられない。
秋栄(あきばえ)★ 8月下旬~9月上旬 鳥取大学が二十世紀梨と幸水を交配して育成した赤梨の新品種。二十世紀梨の酸味と幸水の甘みの両方が一度に楽しめる。
二十世紀梨 8月下旬~9月中旬 鳥取県が生産量日本一を誇る青梨の王様にして、鳥取県民のソウルフルーツ。シャキシャキ触感とみずみずしい果汁とほどよい酸味が大人気。
豊水(ほうすい) 9月上旬~下旬 幸水に次ぐ赤梨の代表格。栽培面積と生産量が全国第二位である。二十世紀梨の孫品種で、二十世紀梨に近い糖と酸のバランス、良好な肉質が特徴。貯蔵性もよい。
あきづき 9月下旬~10月上旬 丸い形が月に似ていることからその名が付いた赤梨。糖度は豊水とほぼ同じで酸味もあってバランスのとれた味である。
新高(にいたか) 10月上旬 赤梨の中では幸水、豊水に次いで多く生産されている。糖度は高く、酸味は少ない。
新興(しんこう) 10月下旬~11月上旬 糖度が高く、酸味も適度で濃厚な味。貯蔵性が高く、冷蔵庫に入れれば3か月くらい保存できる。赤梨。
王秋(おうしゅう) 11月上旬~下旬 鳥取県オリジナル品種ではないが、鳥取県以外ではほとんど栽培されていない赤梨。肉質が良く、糖度も高い。
あたご 11月下旬~12月上旬 冬の赤梨の代表選手。果実は1玉1kg以上もある大玉で、芳香強く糖度も高いが、酸味は少なく果汁も少ない。

★は鳥取県オリジナル品種

 

<参考文献>
鳥取県佐治村「佐治村誌」
佐治村教育委員会「わたしたちのむら 佐治」
うえたひろし編「佐治村の果樹園史」(佐治村果実組合)
第50回全国ナシ研究大会記念誌編集委員会「鳥取の梨」(第50回全国ナシ研究大会実行委員会)
八頭郷土文化研究会編「新編八頭郡誌 (五) 八頭郡の農業」(八頭郡町村会)
田邉賢二「日本ナシの品種 来歴・特性よもやま話」(鳥取二十世紀梨記念館)
川瀬信三「図解 よくわかるナシ栽培 ~品種・管理作業・整枝剪定~」(創森社)

和紙(わし)

因州和紙の歴史

 因幡の紙漉きの歴史は古く、8世紀半ば(奈良時代)の正倉院文書の中に因幡の国印が押されたものが保存されているほか、延喜式(905年編纂開始、927年完成)には紙を上納する42か国の中に「因幡」の名が挙げられおり、約1200年の歴史があることがうかがえます。その後、次第に紙漉きが盛んになり、江戸時代の慶長期(1600年ごろ)には御朱印貿易品として輸出されるようになりました。

佐治の和紙

 佐治の製紙は江戸時代の寛永期(1624年~1645年)に始まったとされていますが、詳しい起源は分かっていません。享保期(1716年~1736年)に加瀬木村(現佐治町加瀬木)の西尾半右衛門が播磨(兵庫県)の楷田村に訪ねて抄紙技術を学び佐治に持ち帰ったと伝えられていることから、佐治谷の各集落で紙漉きが盛んになったのはこれ以降であると考えられます。この頃は楮を原料としていました。
 天明期(1781年~1789年)になって三椏(みつまた)が導入され、天保期(1831年~1845年)には製紙原料として本格的に栽培されるようになりました。佐治谷は三椏の栽培に適していたようで、明治時代になって三椏重点の振興策がとられ、明治20年には土佐(高知県)から講師を招いて抄紙技術を磨き、書道用紙や画仙紙を主流に製紙しました。やがて、佐治の因州和紙の品質の高さが全国的に認められるようになり、日本でも有数の三椏系和紙の大産地に成長しました。その製造工程や抄紙技法は現在まで守られ、伝承されています。

「因州筆切れず」

 佐治では「いくら書いても筆が傷みにくい」「墨がかすれることなく長く書ける」という意味で「因州筆切れず」と言われるほど品質の高い書道用紙を生産しています。この言葉は大正時代中頃から使われていたようです。他の和紙で一枚書くうちに二枚書け、墨の減りも少ないとも言われ、全国の多くの書道家に愛用されています。
 書道用紙のほかにも工芸紙や染色紙を生産し、和紙愛好家に注目されています。

経済産業大臣指定伝統的工芸品と鳥取県指定無形文化財

 現在は、佐治と青谷が因幡地方における和紙の主要な産地で、総称して因州和紙と呼ばれています。因州和紙は、昭和50年5月に和紙としては全国で初めて「伝統的工芸品」に指定され、さらに、昭和51年8月に佐治の因州和紙(因州佐治みつまた紙)が鳥取県無形文化財に指定されました。
 現在は佐治に3人の伝統工芸士がいます。

紙漉きの様子

 

<参考文献>
鳥取県佐治村「佐治村誌」
佐治村教育委員会「わたしたちのむら 佐治」
因州佐治和紙協同組合「続々佐治村の紙業」(佐治村文化財協会)
久米康生「私の和紙地図手帳」(木耳社)
「季刊和紙」第5号(1993年5月15日号)
とっとり文化財ナビ
因州和紙伝承工房かみんぐさじ

話(はなし)

佐治谷話の概要

 佐治谷話は、日常のどこにもありそうな愚行を短い笑い話として昔から語り継がれてきた民話のひとつです。民話とは貴族の間で交わされていた和歌や詩のような文学とは異なり、民間に口頭で伝えられてきた説話のことをいいます。口承文芸ですので文章は残されておらず、庶民的な部分を多く有し、また方言が色濃く残っています。
 話の内容は、早合点や勘違いによる失敗談、現実にはあり得ない法螺話、相手を巧智でやっつけて溜飲を下げる頓智話など、笑い話から生活訓までさまざまです。

 佐治谷話は因幡、伯耆、美作、備中、備前、但馬、播磨の区域に広く伝播されていることが確認されています。鳥取県内はもとより、兵庫県や岡山県にも佐治谷話が知られており、その広がりは他の民話と比べて圧倒しています。

響け佐治谷ばなし

佐治谷話のはじまり

 佐治谷話の起源については諸説あるものの、明確な記録や文書が残っていないためまったくわかっていません。ただ、中近世を舞台とした話が多いことから、中世までにはその原型ができていたものとみられています。また、鳥取藩士・野間宗蔵が著した「因州記」の第4巻に「佐治谷ノ者ト云事」と題する文章があり、そこには佐治谷という城下から程遠い場所で、池田光政が因幡国に入国したころ(元和4年・1618年)から可笑しい物語を多く語り継いでいる、というような記述があることから、江戸時代初期には佐治谷話があったと考えられます。 

佐治谷話の分類

 佐治谷話は民話の中の「昔話」に該当します。そして、昔話には「むかし語り」「動物の昔話」「笑い話」「形式話」の4つに分類されます。佐治谷話は78の話がありますが、そのすべてが「笑い話」に含まれます。

 笑い話を大きく分けると「愚人譚」「巧智譚」「狡猾者譚」の3つがあります。佐治谷話は愚人譚がおよそ4分の3を占め、残りの4分の1が巧智譚と狡猾者譚です。
 愚人譚とは、愚かな人物の失敗話のことで、極端な愚行、無知などで笑いを誘う話です。
 巧智譚は、智恵でもって相手を巧みにやりこめてうまく利益を得る話です。
 狡猾者譚は、わざと馬鹿なふりをして相手を騙し、利益を得る話です。

 佐治谷話はどの話も、言葉や物事の勘違いや取り違いなど、誰もがやるかもしれないことや、やったら愉快と思われるようなことをユーモラスに語った笑い話です。

「愚か村話」

 佐治谷話は愚人譚が多くを占めることから、「佐治谷の阿呆ばなし」「佐治谷の愚か村話」などと呼ばれていました。佐治谷話の主人公の多くは佐治に住む人々ですから、愚かなことをする人が住む村の話 → 愚か村話、となったのでしょう。

 多くの昔話がそうであるように、佐治谷話も作者は不明で、話の内容もほとんどが創作(フィクション)です。また、佐治谷話と類似する話が全国的に分布していたり、江戸小咄にもあったりするなど、他地域から佐治谷に流入したことをうかがわせる話が佐治谷話の中にはあります。すなわち、佐治を舞台とした佐治に住む者の失敗談(愚か話)が、実はもともと他の地域の話であって、それが佐治の話にすり替えられた可能性があるのです。ですから、佐治に住む人々が特別愚かだったということでは決してありません。

 愚か村話がある地域は全国に35か所ありますが、地域のPRに活用しているのは佐治だけです。佐治では佐治谷話の保存・伝承と語り手の育成を目的に「さじ民話会」が設立され、方言や語り口調を大切にしながら、次世代に佐治谷話を語り継いでいます。
 こうした取り組みが認められ、平成16年11月、佐治谷話は佐治村指定文化財(無形民俗文化財)に指定されました(鳥取市に合併後、鳥取市指定文化財に登録)。

 

<参考文献>
鳥取県佐治村「佐治村誌」
中島嘉吉編「さじだにばなし 改訂増補版」(佐治村文化財協会)
ひらのりょうこ「響け佐治谷ばなし」(佐治村役場総務課)
さじ民話会20年誌刊行委員会「さじ民話会20年の歩み」(さじ民話会)
小林忠志編「因幡佐治谷ばなし集 改訂」
有本喜美男「佐治谷話のルーツを探る 増補版」(「佐治谷話のルーツを探る」刊行会)
酒井薫美「「佐治谷話」考」(「北東アジア文化研究 第38号」所収)
武中利幸、森田八雲「佐治谷ばなしの保存と活用」(鳥取大学地域学部地域政策学科「地域調査実習報告書9 鳥取市河原町・用瀬町・佐治町(3)」所収)
稲田浩二「昔話は生きている」(三省堂)
関敬吾「日本昔話大成」(角川書店)

石(いし)

佐治川石とは 

 佐治川石は、古生代(約3億年前)の海底火山活動で噴出された玄武岩質の溶岩や火砕岩がもとになっていて、その後、地殻変動により高い圧力がかかったり、熱の影響を受けたりしてできた黒い緑色の岩石が地表面に現れ、長い年月をかけて風化・浸食して転石となったものです。地質学的には、北九州から山陰地方にかけて帯状に分布する「三郡変成帯」に属している「変成岩類」とされています。

日本三大名石のひとつ

 佐治川石は日本三大名石のひとつに数えられ、盆石や庭石として全国の愛石家に人気があります。

 佐治川石にはいろいろな形や模様があり、佐治川石同好会はこれらを10種類(佐治川真黒石、灰地石、雲かけ石、糸かけ石、碧譚石、虎石、紋石、霰石、巣立石、天平石)に分類していて、中でも濡れると青黒く輝く佐治川真黒石は特に貴重なものとされています。

 佐治地域では古くから庭石として珍重され、大正時代の中ごろには鳥取市内や八頭郡内の大邸宅や旅館などの庭石に使用されるようになり、京都や大阪でも人気となりました。また、明治40年ごろから盆栽用として全国的に名声を博するようになったほか、昭和30年代後半に起きた石ブームのときには室内観賞用の水石として佐治川石が東京や京都、大阪を中心に愛石家のあいだで注目されました。
 しかし、佐治川石の人気が高まるとともに佐治川石を採取、盗石する者が続出して乱獲の様相を呈してきたため、昭和40年10月に鳥取県知事名で全面採石禁止が発令され、昭和59年には鳥取県が佐治川石の保護を目的に佐治川流域を自然環境保全地域に指定し、佐治川石の採取を禁止しました。

佐治川石が見られる場所

黎明の庭

 佐治町総合支所の裏に佐治川石を配置した庭があり、「黎明の庭」と名付けられています。この庭は、平成4年に当時の佐治村が村制80周年記念事業として、佐治川石の保存と展示を目的に、大阪芸術大学学長(当時)の中根金作氏に設計を依頼して造られたものです。

 庭園内に配石された佐治川石のひとつひとつは、それぞれ佐治が誇る伝統や文化を象徴しており、「海上に点々と大小の国造りがたくましく始まっている」様子を表しています。そして、庭園全体で「大海原の中に新たな国の始まり、黎明期を迎える」佐治の繁栄を表現しています。

因伯の塔

 太平洋戦争の激戦地だった沖縄本島摩文仁丘には沖縄戦で戦没した鳥取県出身者を祀った慰霊碑があり、佐治川石が使用されています。慰霊碑の表には「因伯の塔」と刻まれています。

鳥取県護国神社手水石

 鳥取県護国神社の手水石に佐治川石が用いられています。

 

佐治川
佐治川

 

 

<参考文献>
佐治村教育委員会「わたしたちのむら 佐治」
上田礼之編「佐治村の石」(佐治川保全協会)
浜田英一編「とっとりジゲ自慢101選」(富士書店)
山名巌「鳥取地方の”石ころ”物語」(今井書店)
「月刊愛石 2012年7月号」
「黎明の庭」(株式会社中根庭園研究所)

星(ほし)

さじアストロパーク誕生

 平成元年、当時環境庁(現環境省)が実施していた全国星空環境調査(スターウォッチング・ネットワーク)に佐治村(当時)が応募したところ、1平方秒当たりの夜空の明るさが村内全域で21.5等級であることが確認されました。これは、最も理想的な夜空とされている1平方秒当たり22.5等級にとても近い数値でした。このことで、佐治の夜空の素晴らしさが認識され、のちの天文台建設につながりました。

 平成3年度にさじアストロパーク基本構想がまとまり、以降、平成6年度にかけて順次整備されていきました。平成5年には佐治天文台が完成。佐治天文台長に香西洋樹氏を迎えました。その後も宿泊施設などを整備して平成6年7月にさじアストロパークがオープンしました。さじアストロパークに導入された口径103センチメートルの反射望遠鏡は、公開天文台としては当時国内最大口径の反射望遠鏡でした。

 さじアストロパークには開設当初から4名の天文研究員がおり、毎日天文観測などの研究活動をしているほか、天文観察会の開催、小中学生を対象とした天文教育にも力を入れています。

星
冬の佐治天文台と星空

 

小惑星の発見と命名

 さじアストロパークではこれまでに22個の小惑星を発見しています(令和3年3月末現在)。新しい小惑星を発見すると、その小惑星の名前を提案することができます。さじアストロパークが命名したものには、「佐治」「佐治川石」「二十世紀」「みつまた」など佐治地域にまつわるもの、「大砂丘」「ふるさと」「谷口ジロー」など鳥取市にまつわるものがあります。また、平成12年10月に鳥取県西部地震が起きた際には、被災地の早い復興を願い、小惑星の名前に「伯耆大山」と名付けました。

全国星空環境調査で日本一

 全国星空環境調査(スターウォッチング・ネットワーク)は、星空観察という身近な方法による大気環境の調査活動の実施を通じて、大気環境保全に関する意識を高めることを目的として、昭和63年度から平成24年度まで実施されました(平成30年度から一部手法を変更して再開しています)。この手法は、香西洋樹氏が国立天文台に勤務していたときに提案し、環境庁(当時)に採用されたものです。
 この全国星空環境調査において、全国に24か所ある定点観測地でのカメラ撮影において、さじアストロパークは11回も日本一になりました。全国星空環境調査で1位になったことがある県庁所在地は鳥取市だけです。

 

昇る夏の天の川 in 鳥取市さじアストロパーク

 

<参考文献>
鳥取県佐治天文台「平成12年度さじアストロパーク年報 第7号」(さじアストロパーク
「星取県」って何?(鳥取県公式ネット)
「天文教育 2018年1月号」(日本天文教育普及研究会)

このページに関するお問い合わせ先

佐治町総合支所 地域振興課
電話番号:0858-71-1912
FAX番号:0858-89-1552

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