鳥取市

港町として栄えた青谷の芦崎(あしざき)登録日:

●港町として栄えた青谷の芦崎村を訪ねて

 芦崎湊(あしざきみなと 現青谷港)は、芦崎川(現勝部川下流)の河口を利用した天然の港です。すぐ西側に位置する丸山(標高69m)によって北西の風がさえぎられ、川岸に船を泊めやすい条件を備えています。
 安土桃山時代から江戸初期にかけて、この地を治めていた鹿野城主亀井玆矩(かめいこれのり)が、東南アジアとの海外貿易である「朱印船貿易」を行うにあたり、その本拠地を長崎に定めました。その長崎と因幡との海上連絡に芦崎湊を使用していたことから、この湊は、この時代にはすでに重要な位置を占めていたといえます。

            
 

 

 

 芦崎(現青谷地区)は、この河口の東岸に沿って廻船問屋(かいせんどんや)などが連なる港町として、繁栄しました。廻船問屋が船主であった廻船(荷物を運ぶ船)は、中型以下のものが大半でしたが、中には「北前船(きたまえぶね)」と呼ばれた千石船(せんごくぶね)級の大型船をもつ者もありました。米、木綿、和紙、そして海産物などが船積みされ、なかでも、木綿は、「青谷木綿」として大阪市場で、そして「貝がら節」を生んだイタヤ貝の干身は、長崎で盛んに取り引きされました。

 青谷海岸から勝部川沿いに家並みが続く浜町通りは、江戸時代、港町芦崎に本拠地をもつ8軒の富商の廻船問屋などが建ち並んでいた場所であるところから、字名として「八軒屋(はちけんや)」とあります。八軒とは、金屋・関屋・鍵屋・大黒屋・舛屋・松屋・浜崎屋・米屋であり、廻船業などを営む芦崎を代表する商人たちで、近くの湊神社にそれぞれ1基または2基ずつ灯ろうを奉納しています。
 芦崎は、江戸、明治の時代に大火があり、当時の建物などはほとんど残っていませんが、船主集落の町割りや船の積み荷を
運んだ「津出し路地」が、当時の面影を伝えています。

       

*「芦崎の町並み」と「津出し路地」:日本遺産構成文化財

湊神社(みなとじんじゃ)

 湊神社は、もとは「湊八幡宮(みなとはちまんぐう)」と称して、江戸時代は芦崎川西岸側にある丸山に鎮座していました。祭神は、品陀和気命(しなだわけのみこと)と武内宿禰(たけうちのすくね)。明治4年(1871)に現在地の八軒屋に移りました。境内には、芦崎の商人たちが奉納した灯ろうが12基あり、最も古いものは明和4年(1767)8月の日付のもので、金屋治郎左衛門の名が刻まれています。芦崎はまさに廻船問屋などの富商の基地で、町はにぎわい活気にあふれていたことでしょう。なお、こま犬も複数対あり、中に「航海上安全」と刻まれた寛政13年(1801)に赤間関(あかまのせき 現下関市)の商人(舛屋)から寄進されたものがあります。
 また、「おふね」と呼ばれる廻船型模型「八幡丸」の神輿が奉納されており、春季例祭のとき、本神輿の後を車台に乗せてひいて回りました。」

         こま犬 うん形(1801年) 御影石(花崗岩)製

*「湊神社の奉納物」:日本遺産構成文化財
※ 青谷は、賀露とともに鳥取市として日本遺産「北前船寄港地・船主集落」に認定(2018年)されています。

 なお、湊神社南隣に、南北朝時代の嘉慶3年(1389)に建立された「阿弥陀三尊種子板碑」の供養塔「嘉慶(かけい)の碑」(鳥取市指定保護文化財)があります。

 

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青谷町総合支所 地域振興課
電話番号:0857-30-8692
FAX番号:0857-85-1049

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