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− 目次 −
◆鹿野まち普請の作法
はじめに
1.まちは大切な共有財産
2.「まち普請の作法」を作った目的
3.鹿野の歴史
4.街なみ環境整備地区鹿野の位置づけ
5.住まいのつくり手・住まいの手の留意点
-コラム 鹿野城下地区地価
6.まちなみ参考図集
6-1.矩計(断面)
6-2.天空率はまちなみ形成の重要な要素
6-3.格子戸
6-4.腕木
6-5.持送
6-6.床下換気口
6-7.車庫の目隠し
7.鹿野まちなみ整備による事例
あとがき
◆資料編
◆写真編
◆まちなみマップ編
 
●まち普請の作法を作る会
●特定非営利活動法人
 いんしゅう鹿野まちづくり協議会
●鳥取市鹿野町総合支所地域振興課

〒689-0405
鳥取県鳥取市鹿野町鹿野1517

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3.鹿野の歴史
 中世における鹿野は軍事上・交通上の重要拠点として隣国但馬(山名氏)からの侵入や出雲・安芸方面(尼子・毛利両氏)からの侵入、さらに豊臣秀吉軍の侵入など争奪攻防の的となった。尼子の遺臣で早くから秀吉に従い、鳥取城攻めの戦功の大きかった亀井茲矩が天正9年、気多郡1万3800石を得て鹿野城主になった。亀井茲矩の登場により平静を得て、その後は城下町、近隣の物産集散地として発展していった。
 茲矩は関ヶ原の合戦では石田三成と意見があわず、徳川家康の東軍に組みして戦い、高草郡2万4200石を加増され、3万8千石を領有した。茲矩から家督を引き継いだ政矩は5千石加増され4万3千石の所領になった。しかし、鹿野城は元和元年の一国一城令により破壊され、茲矩から家督を引き継いだ政矩に元和3年転封の幕命が下り、政矩が津和野に移った後鹿野は次第にさびれていった。
 亀井公の時代は、天正9年(1581)から元和3年(1618)までの37間、亀井茲矩、政矩2代にわたる期間である。この間、新田開発、植林、治水、殖産興業、御朱印船貿易等々、実に刮目すべき治政が実施され、「鹿野」が歴史の中で一番輝いた時代である。
 鹿野のまちはこの時代にかたちづくられていったのである。まず、亀井茲矩は鹿野周辺を流れる河内川、水谷川、末用川等の流路を改め、大がかりな改修を行い、城の外郭を整備した。そして、茲矩は城の周辺に侍屋敷を配置(殿町)し、その外側に町屋を設けた。現存する町名は、小屋根・紺屋町・上町・立町・下町・鍛治町・山根町・大工町であるが、これをみても、鹿野には商工業者の職人町があったことが分かる。そのほか、『拾遺鹿野故事談』によると、「津山町・八日町・新町・魚町・茶町・河原町・スヤマ町・呉服町・ノボリ町・本町・油点町」等の町名が記されている。このうち、茶町は「茶苑小路」付近、河原町は紺屋町から雲龍寺に至る道の南側、この隣に新町、魚町は字「下町北側」の北、呉服町は大工町の南側にあったと伝えられている。新町は町の大半が宝木に移り、宝木新町を作った。
 街路は、城下町特有のT字路、L字路が各所にみられ、遠見遮断が考えられている。道路の幅員は商業の中心地区とみられる上町・下町が約二間半で広く、職人町の大工町付近では約二間となっている。また、侍屋敷は一間〜一間半で狭く、屈曲点を多くし防衛上の配慮がうかがえる。
 紺屋町、上町、下町、山根町、鍛冶町、大工町、殿町、立町の幹線道路の側面には水路が作られており、随所に石造の「せき」が設置され、防火用水として水をたたえ、緊急事態に対応できるようになっている。
 池田藩政に変わっても亀井公以来の城下町としての伝統を持ち続け、維新の後、イメージ明治3年には鹿野村が成立して、翌年には鳥取県に所属するが明治9年には島根県の所属になった。しかし、明治14年には再び鳥取県の所属になり、明治32年には鹿野村に町制が施行された。昭和30年には、勝谷村、小鷲河村を吸収合併して鹿野町が誕生し、平成16年10月には鳥取市と合併した。