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民俗学や日本文化研究における人形研究の中で、雛人形の研究は一つの大きなテーマになっています。流しびなの研究もこの雛人形の研究に含まれます。流しびなはどのように誕生し、現在まで続いてきたと考えられているのでしょうか。ただ、流しびなの性質上、流されずに保管されている史料がないことも研究の難しいところです。そのため、口頭伝承や文書に残された流しびなの記述から探っていく必要があります。
本項では、全国的な言説を参照しながら、用瀬の流しびなの起源にも迫ってみたいと思います。ただ、「国指定文化財等データベース」の「用瀬の流しびな」のページでは、『行事の発祥や由来につては、…詳らかでない』としている他、山陰地方の民俗に詳しい民俗学者の四宮守正(1981)も、『あれこれせんさくすると、はっきりしないことが多い』と述べています。流しびなの起源は、推測も含めてそれぞれの立場で述べられてきました。本項では流しびなの起源として通俗的に述べられていることも含めて、4つの説を紹介したいと思います。
まず最初に紹介する説として、古代から行われている人形(ヒトガタ)流しと平安貴族の女児の「ひひな遊び」に起源を求める説です。この説は通俗的に広くみられる説で、雛人形の起源と同じくする説です。
古代日本では人形(ヒトガタ)にケガレを移して川や海に流すことで災厄を祓うという思想がありました。中国からも節供の考えや曲水の宴などの文化が流入しました。『源氏物語』にもヒトガタを船に乗せて流した風景が描かれているように、平安時代にはヒトガタを流す儀式が行われていました。 また、平安時代には、貴族の女児が「ひひな遊び」という人形遊びを行っていました。貴族の儀式を模した人形を用いたいわゆるままごと遊びともいわれています。この人形遊びは、ヒトガタにケガレを移すという思想と合流し、子どもの成長を願う身代わり人形へと発展していきました。この発展の先に、雛人形が登場します。
このような雛人形の歴史と流しびなの起源を同じものと捉えて、流しびなは、ヒトガタ流しの要素を強くもった人形として発展したものであるという説が一般的に広く語られています。悠久の歴史を感じるノスタルジックな説ではあるものの、ロマンの域を出ないもの現実のようです。ケガレをヒトガタに移して流すという思想は引き継がれているように思われますが、そのほかわかっていないことがあるのも確かです。例えば、3月の節供で流すものがいつから「雛人形」になったのか、現在のような流すために作られる雛人形はいつから登場したのか、などです。文献に流し雛が登場するのも江戸時代まで待たなければなりません。このように考えてみると、流しびなの起源を雛人形と同じものに求めることは早計なように思えます。
この説を「用瀬の流しびな」で考えてみたいのですが、古代の用瀬に関する記述は乏しく、流しびなの歴史をさかのぼることは難しいのが現状です。一方で、用瀬町内には複数の古墳が出土しており、古代から用瀬に人々が暮らしていたことを裏付けています。おそらく、何かしらの呪術的な営みはあったのではないでしょうか。また、用瀬町教育委員会(1993)は、自然河川遺構から移動式の竈が出土したことは、流しびなに通ずる道教的な思想が古代の用瀬に存在したのではないかと推測しています。ただ、古墳以降の用瀬の流しびなの変遷をたどることは難しく、江戸時代末期には行われていたという語りを待つほかないのが現状です。
2つ目の説は、室町時代から続くという説です。鳥取市との合併以前の用瀬町において、昭和50年~60年代の新聞記事やチラシなどで、室町期に伝わったと記されているものが複数見られます。ただ、この記述の根拠となる史料的な裏付けはほとんどわかっていません。また、この説は2026年現在はほとんど言及されなくなっています。
流しびなの館の展示には『板祐生氏の資料によると/発祥年代は祥らかならず/足利期より連綿として当地二連われり』という記述があります。板祐生は明治〜昭和にかけて活躍した版画家で、収集家でもありました。その過程でこの説に触れたのかもしれません。鳥取市街地で流しびな製作を行った田中達之助や信夫工芸店の流しびなに付随した由緒にも室町時代から続いている旨の記述があり、板もこのような郷土玩具の由緒を読んだのかもしれませんが、そもそもこの由緒の根拠もわかっていません。
郷土玩具に詳しい民俗学者の加藤幸治(2011)によると、郷土玩具の由緒の多くは真偽不確かなものが説明書に書かれ、この説明が何回も複製されて広まったケースが多いとされています。このことから考えると、近代の郷土玩具ブームの中で、鳥取の流しびなの起源を室町時代とした由緒が複製されて広まり、昭和50年代~60年代の用瀬に登場したと考えられるのではないでしょうか。
3つ目は、江戸時代の「捨て雛」を起源とする説です。江戸時代に入ると、五節供の制度化が進み、雛人形の生産も盛んになりました。江戸時代後期になると、高級な雛人形の他に押絵雛や土雛など、安価な雛人形が地方にも広がりました。こうして多くの雛人形が生産されるようなると、同時に破損したりして不要になった雛人形も多数生まれます。こうした雛人形を川に捨てて供養した「捨て雛」が「流し雛」と呼ばれ、いつしか流すために作られる雛人形が作られるようになったのではないかと言われています。
江戸時代の国学者・喜多村信節によって記された『嬉遊笑覧』には、江戸の風俗が細かに記述されており、「流しびな」も立項されています。ここには、捨て雛を行う女児の姿が紹介されています。
相模愛甲郡敦木の里にて年毎に古びなの損したるを児女共持出てさかみ河に流し捨る事あり。白酒を一銚子携へて河邉に至れば他の児女もここに来り互にひなを流しやることを惜みて彼白酒をもて離杯を汲かはしてひなを俵の小口などに載て流しやり一同に哀み泣くさまをなすことなり。此あたりのひな内裏ひなに異なることなし。其外に藤の花をかつける女人形多し。おもふにひなを河水に流すハもと祓除のことによるなるべし。妹背山浄るりにひなの道具を水に流すことあるは作り設すこととのみ思ひしにかく似たることもあり。
この記述によると、現在の厚木市では、古くなった雛人形をサンダワラに乗せて川に流したことがわかります。また、これは厄払いの意味があったことも記されており、このころからヒトガタ流しの思想が関係していると考えられていたようです。
用瀬の古老によると、戦後すぐの頃では、千代川に流しびなだけでなく、古くなった人形も流していたようです。これは流しびなと同じ旧暦3月3日に流したそうで、このことからも、「捨て雛」と「流しびな」は思想的にも近いものであるとも推測できます。
最後の説として、淡島信仰起源説を紹介します。近年の流しびな研究を語るうえで、淡島信仰を語らずには通れません。というのも、全国で流しびなを行ういくつかの地域では、淡島信仰に由来するということが伝わっているからです。例えば、岡山県笠岡市北木島、広島県大竹市、和歌山県紀の川市などが淡島信仰との関連が伝えられています。これは、今までのひな祭りとの関連や捨て雛とも位相が異なる説と思われます。
淡島信仰とは、和歌山県加太市の淡島神社にまつわる信仰で、婦人病に霊験あらたかな神が祭られ、江戸時代になると淡島願人という坊主が信仰を全国に持ち歩いたといわれています。淡島願人は、雛人形が入った厨子を持ち歩き信仰を説いてまわる際に流しびなを勧めたと言われています(石沢2018)。雛人形研究を行う皆川(2015)によると、淡島願人に対して『身に着けていた宝飾品を差し出す女性も』おり、中には『心を込めた手作りの人形を奉納することもあった。さらに、川や海の流れにゆだねて、船玉のように素朴な雛を流して代参を願う女性たちもいた』ようです。こうした淡島信仰の広まりが、全国の流しびなの起源になったのではないかと言われています。

(出典:『絵本御伽品鏡3巻』1687年 国文学研究資料館国書データベースよりhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100357751/24?ln=ja<外部リンク>)
この説が正しいとすれば、流しびなは、江戸時代に特定の宗教が広めたことになります。ケガレをヒトガタに移して流すという思想は継承しながら、婦人病平癒に特化し、淡島神社の代参機能を持ったものとして流しびなが誕生したということになします。しかし、実際に言い伝えがある場合は別にして、淡島信仰にまつわる言い伝えが見られない地域の流しびなの起源はどのように考えることができるのでしょうか。淡島信仰起源説はわかりやすい説であり、根拠が明確である一方で、そこから漏れた地域の起源をどのように説明することができるのでしょうか。はたまた、わかっていないだけで、調査が進めば、淡島信仰との関連が見えてくる場合があるのでしょうか。
用瀬についていうと、坂田(1995)は、『用瀬町美成では、流しびなは竜宮まで流れて行くが、その竜宮の神さんは淡島さんだといっている』ことから用瀬の流しびなの起源も淡島信仰に関連があると主張しています。しかし、用瀬町での淡島信仰とのつながりを示す直接的な語りは、美成地区の記録以外には発見されていないため、用瀬町の流しびなの起源を淡島信仰と判断するのは早計と思われます。ただ、お産の際にサンダワラを敷いていたという語りや水子供養としての流しびなの事例(「流しびなの民俗」参照)を見ると、婦人病平癒などの願いを流しびなに託していたとことも確からしいです。しかし、この願いが、淡島信仰によるものなのか、自然は願いとして形成されてのかはわからない部分です。
これまで見てきたように、流しびなの起源発祥については、様々な説があります。地域によって伝えられていることの質にも差があり、資料も少ないことから、史実がどうだったかを判別することが難しいのが実際のところです。明確に淡島信仰からのつながりで説明している地域もあれば、用瀬のように『詳らかではない』という地域もあります。また、すべての流し雛の起源を淡島信仰に取ることも難しいと思います。一方で、平安時代から続く行事が形を変えて残ったというのも、歴史の空白が多すぎるようにも思え、信憑性に欠けるのが現状です。
これらの説を組み合わせて考えるのだとすれば、流しびなとは、平安時代から続く人形流しのような「ケガレを水に流す」思想を背景に、「捨て雛」や「淡島信仰」など、現実の問題や信仰とが合わさり現在の流しびなに変化していった行事であると考えることが自然なのではないでしょうか。
折口信夫『折口信夫全集第十七巻藝能史篇1』1976年中央公論社
喜多村筠庭『嬉遊笑覧』2002年岩波書店
坂田友宏『因幡の雛送りノート』(山陰民俗学会編『山陰民俗業書7年中行事』1995年島根日日新聞社)
坂田友宏『-因幡・伯耆の民俗学研究-神◆鬼◆墓』1995年今井書店
四宮守正『ふるさとの素顔―因伯民俗めぐり―』1981年鳥取市教育福祉振興会
皆川美恵子『雛の誕生―雛節句に込められた対の豊穣』2015年春風社
用瀬中学校郷土研究部『流しびなの研究』製作年不詳(1980年代)
石沢誠司『淡島信仰と流し雛~流し雛は雛人形の源流か?~上:石沢誠司』2018年11月3日公開2024年12月10日確認(初出『郷玩文化』171号 2005年10月刊 郷土玩具文化研究会発行)
https://blog.goo.ne.jp/shizechemg/e/9a63bbb1d6e22dd37e16f088a78e122e<外部リンク>
『国指定文化財等データベース用瀬の流しびな』
https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/312/00001002<外部リンク>
(文責・地域おこし協力隊 堺泰樹)