本文
本項では、用瀬の流しびながたどって来た歴史について見ていきたいと思います。起源については「流しびなの起源」を参照ください。起源についても同様に、観光化される1960年代以前の様子については、正確にわからないことが多々あります。流すという性質上、現物が残っていないこともさることながら、観光化される以前の姿を覚えている方は少なくなっています。特に戦前の姿は記録にも残っていないことも多いのが現実です。
坂田(1995)は、古老への聞き取りから、用瀬での流しびなの歴史は江戸時代末期までは遡れること述べています。江戸時代の末期には鳥取城下町で流しびなが流行し、行商人が千代川流域を中心に流しびなを売り歩き、農村部まで広まっていったとされています。過去の調査では、用瀬町屋住、川中、美成、八頭郡八束、郡家町下峯寺などでは平成初期には流しびなが行なわれていたと記録されています(坂田1995、鳥取県1982、八頭郷土文化研究会1996)。流しびなの分布について坂田(1995)は、『ほぼ一水系に限ってこれだけの広がりを見せる民俗はきわめて珍しく、その意味でも雛送りは千代川の生んだユニークな文化である』と述べています。
用瀬の流しびなの紐解くために、用瀬が流しびなと共にたどって来た戦後史を振り返る必要があるでしょう。
用瀬の流しびなが全国的な注目を浴びる火付け役となったものは「週刊朝日昭和35年3月6日増大号」に掲載された「カラー歳時記」というコーナーであると言われています。このコーナーでは、全国の郷土の文化をカラー写真とともに紹介するもので、雑誌の見開きに流しびなが川に流れる様子が掲載されました。週刊朝日への掲載に関して、複数の町民の『骨折り』(用瀬町1973)があったといいます。
週刊朝日への掲載以降、用瀬の流しびなは、様々な媒体に取り上げられるようになっていきます。雑誌や書籍の他にもテレビでも取り上げられました。1972年には女優の長山藍子氏が読売テレビ「遠くへ行きたい」のロケで用瀬に訪れ、地域の方の記憶に残りました。
こうした注目の中、取材等の問い合わせの対応に当たったのが、町役場でした。当時は、問い合わせのたびに地元保育園の年長児に着物を着させて流しびなを流させていたと言います。
1960年代以降、用瀬町として流しびなを観光事業として作っていく動きが始まります。当時用瀬町の観光担当だった方によると、1962年~1963年にかけて、用瀬町で観光事業を作る取り組みが始まりまったと言います。鳥取市観光課からも、既存の伝統文化を用いて観光事業を作っていくことが効果的というアドバイスを受け、三角山の夏祭り、はねそ踊り、流しびなの3事業を中心に位置づけて始まったと言います。
また、用瀬地区の1区~5区がそれぞれの事業を分担して担うようになり、用瀬2区は流しびなづくりを担当することになりました。この時に流しびな製作グループの「常磐会」が立ち上がったと思われます。この活動の中心に元教員の野上博氏が尽力したと言われています。
このころには、雑誌等のメディアに取り上げられ、全国から観光客が用瀬に訪れるようになってきました。カメラマンの要望にも応える形で、三々五々流しびなを行っていた地元の人たちに働きかけ、同じ時間に着飾って流すように進めていったのもこの頃でした。
1986年6月3日には、『町観光開発審議会の答申を受けて町が関係団体に呼びかけ』(読売新聞1986)用瀬町観光協会が設立されました。1989年には、「もちがせ物産振興組合」という団体も組織され、地域振興に力が入っていた。流しびなについては、行事は町役場と商工会が主体となり観光イベント化を進めていきました。用瀬を「流しびなの里」としてブランド化し、全国的なPR活動も積極的に行いました。他地域からの視察も多く、他地域で流しびなを始めたり、ひな祭りを地域活性化に用いたりするブームの先駆けとなりました。宝くじのイラストへの起用、郵政省「流し雛記念切手」の発行、小学校の国語教科書にも取り上げられるなど注目が高まりました。
地域住民などの活発な取り組みに後押しされ、用瀬町はハード面でも「流しびなの里」の整備を進めました。
1986年には林野庁の材木需要拡大緊急対策事業を受けて「流しびなの館」を建設しました。金閣寺をモチーフにした仏教建築を融合させた現代建築で珍しいものでした。続けて、1988年には、国の緊急地方道路整備事業の一環として「ひひな橋」が建設。流しびなの館のデザインに合わせた和風の朱色の橋はランドマークとなりました。そして、竹下内閣のふるさと創生事業で交付された1億円を元手に、1991年には観光物産センターを建設され、流しびなを初め、用瀬のお土産の販売や軽食の提供など行う、複合的な施設を建設しました。観光物産センターは、金閣寺をモチーフにした流しびなの館に対して、桂離宮をモチーフにデザインされたほか、水を活かした日本庭園も造られました。
これらの事業と歩調を合わせるように、1986年には「用瀬町観光協会」が設立。1992年には一般財団法人用瀬町ふるさと振興事業団が第3セクターとして設立され、用瀬町の観光だけでなく地域振興を担いました。
流しびなの館周辺の整備、一般財団法人用瀬町ふるさと振興事業団の設立など地域での体制が整う中で、全国的な注目も増していきます。1997年には、TBSの特番ドラマ「浅見光彦シリーズ 鳥取雛送り殺人事件」が放送。2002年には第17回国民文化祭・とっとちが開催され、用瀬町では「流しびなの祭典」称した企画が催され、多くの町民が参加しました。旧暦3月3日に行われる行事の参加者も右肩上がりで増加、多い年には8,000人を超えるほどに成長しました。
坂田(1995)と石沢(2018)によると、時代が下っても流しびなは市販のものがほとんどで、戦時中の物資不足により多くの地域ですたれたが、手作りする地域もあり、数か所で風習が残ったといいます。1980年代に地元の用瀬中学校郷土研究部が行なった調査によると、戦中戦後には山口集落では米や団子粉などありあわせのもので流しびなを作っていた他、婦人会も同様のものを作成していたという語りが残っています。また、用瀬の古老によると、戦後の用瀬では「へんてこさん」や「ばしょうてい」という駄菓子屋で流しびなが販売されていたと言います。
用瀬での流しびな職人の記録で言うと、1877年(明治10年)頃、海老十郎という旅役者が住み着き「みさき屋」の婿となり流しびなを作り、「しかた屋のお菊さん」という女性が売り歩いていたという証言がのこされています(今井1974、中島1976他)。また、石沢(2018)は、かつて流しびなの館で研究を行っていた綾木氏が、古老から明治期の複数の作り手についての話を聞いたことを記しています。
綾木氏は、「用瀬では鳥取や河原町から売りにきた行商人から流し雛を買ったこともあるが、明治のころから地元でも作っていました。明治10年頃、海老十郎という旅役者が用瀬に住みついて流し雛を作り、お菊さんという女の人がそれを売って歩いてまわったという話を古老がしていました。また明治中頃、津山から来た伊賀さんという男の人が、明治後期の頃には矢部さんという人がいずれも用瀬で流し雛を作っていたという話も古老がしています。これを見て地元の女性も見よう見まねで作るようになり、戦時中も絶えることなく流し雛を続けられたのは、自分たちで作れたからです」と言われ、用瀬が流し雛の伝統を守り続けられたのは、自分たちで流し雛を作ることができたことが大きいと強調されていた。
鳥取中心市街地では田中達之助氏が1928年頃から流しびなを作り始める以前は、士族の家内の手内職として製作されたものが雑貨店に卸されていたという証言が残されています(坂田1995)。
1955年〜1958年頃、用瀬5区の田村武蔵・千代子夫妻が流し雛を製作し始めます。武蔵氏の息子夫婦によると、武蔵氏の弟が鳥取市街地の洋菓子店からお菓子の付録として販売できるお土産のようなものを探していると声がかかったものの弟は別の仕事で忙しく、兄の武蔵氏に話をまわしたことをきっかけに、武蔵氏は流しびなの製作を始めたそうです。武蔵・千代子夫妻は紙雛を製作しサンダワラは近隣の農家に依頼して作ってもらっていました。武蔵氏が亡くなられてからも数年間は、息子夫婦が事業を引き継いで流しびな製作を行っていたようですが、現在はサンダワラの入手が困難になり製作はしていません。
田村武蔵氏が流しびなの製作を始めてから少し遅れた1963年には2区の老人会のグループ「常磐会」が「すたれかけている流しびなの伝統を守ろう」として流し雛の製作を開始しました。このグループが現在のときわ流しびなの会の前身となりました。現在、ときわ会の製作する流しびなは主にお土産用として、流しびなの館や行事の当日に販売されています。また、ときわ流しびなの会は、地元小学校の児童へのサンダワラの製作指導も毎年実施しており、地域の伝統文化継承にも取り組んでいます。
現在、流しびなが行われる場所は「ふれあいの水辺」と呼ばれていますが、流し場も歴史的な変遷があります。
古老の語りによると、戦後の千代川は急流で、幼い子どもが東岸(用瀬の町側)からは川に近づくことが危ない状況だったといいます。当時、「中橋」という橋が架かっていましたが、幅も狭く、大雨で頻繁に流れてしまうような橋だったようです。そのため、用瀬の人たちは橋の上から投げ入れるように流すか、茂みを分け入って急流に流したようです。また、用瀬の町中を流れる瀬戸川に流す人もいたようです。一方で当時から千代川西岸の別府集落側は流れが緩やかだったと言います。
このような状況に変化が訪れたのが、1962年にコンクリート製の中橋ができたことでした。『広報もちがせ No.36号』(1962年9月)によると、台風などで流されていた橋を復旧する際に、コンクリート製にし、『桁は、PS桁を使用したコンクリート製で、小型四輪車の通行も可能な』安定感のある橋になったと言います。このことにより、用瀬の住民も安心して別府側まで渡って流すことができるようになったとみられます。
次に変化が訪れたのは、1966年の用瀬バイパスの開通です。国道53号線が用瀬の町中から用瀬駅裏に移りました。古老によると、この工事により川の流れが変化し、千代川の東側の流れが緩やかになったと言います。この流し場も後に整備され、1986年には建設省の「手づくり郷土賞」の「ふれあいの水辺」のひとつに選ばれることになりました。その後、用瀬の流しびなのメインの流し場は、現在の場所になりました。
今井喜久『用瀬禮讃』1974年
坂田友宏『因幡の雛送りノート』(山陰民俗学会編『山陰民俗業書7年中行事』1995年島根日日新聞社)
坂田友宏『-因幡・伯耆の民俗学研究-神◆鬼◆墓』1995年今井書店
田中倫明『無病息災を祈る「もちがせ流しびな」』『雑誌河川文化65号』2014年3月日本河川協会
鳥取県教育委員会『鳥取県民俗地図-鳥取県民俗文化財分布調査報告書-』1982年
中島敏行「人形風土記-鳥取流しびな」『世界の人形・日本の人形』102~103ページ、1976年読売新聞社
八頭郷土文化研究会『新編八頭郡誌九巻八頭郡のくらしと民俗』1996年
『用瀬町にも観光協会』1986年6月4日、読売新聞
石沢誠司『淡島信仰と流し雛~流し雛は雛人形の源流か?~上:石沢誠司』2018年11月3日公開2024年12月10日確認、(初出『郷玩文化』171号 2005年10月刊 郷土玩具文化研究会発行)
https://blog.goo.ne.jp/shizechemg/e/9a63bbb1d6e22dd37e16f088a78e122e<外部リンク>
(文責・地域おこし協力隊 堺泰樹)